■節子への挽歌1243:現実を容易に受け入れないのは現実が存在しないからだ
節子
湯島のオフィスでの来客の合間に、突然に空き時間があることがあります。
先ほどから一人なのですが、湯島のオフィスで一人になる機会はそう多くはありません。
誰かに会うためにオフィスに来ることが多いからです。
それに一人になると、ついつい物思いに沈みがちです。
気がつくとただボーっと外を見ていることもあります。
そういえば、昨日は挽歌を書いていないことに気づきました。
昨日は何をしていたのでしょうか。
時間はあったはずですが。
こうやって湯島から外をボーっと見ていると、そばに節子がいるような気がします。
笑われそうですが、実はまだ節子がいない世界を生きているという実感はないのです。
同じ立場の人には、たぶんわかってもらえるでしょうが、今にも節子が隣から声をかけてくるような気がどうしてもするのです。
また会えますよ、といってくれる人の言葉に、奇妙に真実味を感じるのです。
私には、節子がいない世界などありようがないのです。
ブラジルの作家、ボルヘスはこう書いています。
「われわれが現実を容易に受け入れないのは、現実が存在しないことを予感しているからにすぎない」
この言葉に時々すがりたくなるのです。
現実を受け入れらないのであれば、その現実は存在しない。
なんと快い響きでしょう。
節子のいない現実は存在しないのです。
いつか必ず節子が戻ってくる。
愛する人を失った者は、哀れにもそう信じているのです。
そう信ずればこそ、生きていけるのかもしれません。
もちろんボルヘスは、そんなことは言っていません。
それを勝手に誤解しているのは私ですが、私の誤解にも僅かばかしの真実はあるような気もします。
それに、ボルヘスもたぶん認めるであろうように、現実の世界は一義的に存在するわけではありません。
現実は誰かが勝手に構成して創られた「客観的に実在する」ものでもありません。
私たちが現実だと思っている世界が、現実であるとは限りませんし、第一、現実などというものがそもそもないのかもしれません。
そう考えれば、節子がいると思いながら生きつづけることは決して間違いではないのです。
少なくとも、節子がいない世界を受け入れるのはやめる価値はあるのです。
空を見ていると、人は哲学者になるのかもしれません。
ボルヘスは私には縁遠い人でしたが、なぜか急に懐かしくなりました。
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