■節子への挽歌1239:「余命」と「いつ何があってもおかしくない」
若い友人からメールが来ました。
年末に会って、今年はあることに取り組もうという話をしていたので、その報告かと思ってメールを読み出したのですが・・・・
母が、5日夕方、緊急入院し、検査の結果、すい臓がんと診断されたのです。思ってもいなかった内容に一瞬読みとどまってしまいました。
13日に、本人と家族に告知されました。
なんと余命3ヶ月・・・お正月休みは、母の手料理を囲んで、のんびり過ごしたばかりで、
今現在も元気にしている母が、あと数ヶ月の命だとは、到底信じられません。
それにしても、「余命」って一体なんなのか。
改めて思いました。
信じられなければ信じなければいい、と言いたい気もしましたが、やめました。
それは個人の問題ですから。
私も全く信じませんでしたし、意識さえしませんでした。
節子は意識はしていましたが、信じてはいなかったような気がします。
意識しなくても、信じなくても、現実は現実として進んでいきます。
しかし、生命はいかなる場合もそれ自体価値のあることで、「余った命」など断じてあるはずもないのです。
医学の知識があるとしても、勝手に決めていいものでしょうか。
節子の主治医は、「いつ何があってもおかしくない」とはいいましたが、「余命」と言う言葉は使いませんでした。
「いつ何があってもおかしくない」という表現は、今の私にも当てはまりますが、その言葉の意味は状況によって、当事者がしっかりと受け止められる言葉です。
その意味では、とてもやわらかな言葉です。
「いつ何があってもおかしくない」としても、彼女のお母さんや周りにいる人たちが価値ある生を楽しまれることを祈りたいと思います。
「いつ何があってもおかしくない」私も、節子がそうであったように、1日1日を大事にしなければいけません。
今の私の生き方を見たら、きっと節子には怒られるでしょう。
少し反省しなければいけません。
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