■傍観者たちの世界
名古屋の河村さんは「独裁者」と言われだしているようです。
「独裁者」と一言で片づけるのは簡単ですが、昨日書いたように私たちの多くは「独裁者」を望んでいるとしかいえません。
なぜなら問題が自分に関わってこない限り、問題には関わろうとしない生き方をしているからです。
「独裁者」が悪いのではなく、独裁的なやり方を許す仕組みやそれを傍観していることが問題なのです。
昨日、テレビで「ニュールンベルグ裁判」をやっていました。
私が大好きな映画です。
繰り返し観ていますが、昨日も最後の部分だけ見ました。
そこでも「傍観者の責任」が問われていました。
ヒトラーを生んだのはドイツ国民であり、それを支えたのはたとえばイギリスのチャーチルであり、労働組合だったのです。
私の定義では、独裁者も傍観者も同義語ですし、権力者はすべて傍観者のなれの果てです。
竹原さんや河村さんは、私の定義では、そのいずれでもありません。
「ナラティヴ・アプローチ」という本に衝撃的な話が紹介されています。
アイヌであることを理由に子ども時代にいじめにあっていた女性の話です。
彼女はその後、ある大学の仕事につきますが、その関係でむかし同じ学校に通っていた少し年上の女性に会います。
その女性がこう言うのです。
「私はあなたと同じ小中学校に通いました。謝りたいことがあります。あなたがたがいじめられていることを知っていたのに止めることができませんでした」
それに対して、当の女性はこう言うのです。
「まだいじめられているほうがましだ。やり返すことができるから。私が嫌いなのはそれを横で見ているだけのあなたたちです。許すことはできません」
(「ナラティヴ・アプローチ」47頁)
私はこれを読んだ時、しばらく先に読み進めませんでした。
自分も傍観者の生き方をしているのではないか、そう思うと本など読んでいる場合かとさえ思ってしまいました。
私も傍観者が嫌いです。
子どもの頃からそういう生き方は意識的に避けてきたつもりです。
しかし実際にはどうでしょうか。
できることはたくさんあります。
小さくてもいいから、できることをきちんとやっていく、そんな生き方をさらにめざしていますが、時にそうした生き方から逃げたくなります。
大したことはやっていないのですが。
傍観者で構成されている社会は、私には退屈な社会です。
ちなみに、私は傍観者を信じません。
残念ながら私の友人知人の大半は傍観者的生き方をしています。
しかし、そうでない人もまた多いです。
私もそうならなければいけないと、いつも自分に言い聞かせています。
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