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2011/01/10

■節子への挽歌1226:「理解とは、そのなかで人が世界を有する出来事である」

「理解とは、そのなかで人が世界を有する出来事である」とは、異端の認知科学者マーク・ジョンソンの言葉だそうです。
認知科学の基本姿勢は、世界はそれを見る人から独立して存在するというものですが、私にとっての世界は、私がいればこそ存在するのであって、私の理解する世界は、おそらく他の人とは大きく違っているだろうと思います。
しかし人は(私もですが)、往々にして、みんな同じ世界に生きていると思いがちです。
私が、そのことを単に頭ではなく、心身で実感し出したのは、やはり節子を見送ってからです。
世界は一変し、他の人と話していても、なんだか別の世界にいるような気がよくしたものです。
最近は、そういう違和感はあまり持たなくなりました。
私と他者の世界の違いではなく、みんなそれぞれに違うのだということと、にもかかわらず、それに併せて、みんなの世界はしっかりと重なり合っているのだという気がしてきたのです。
それに同じ世界を生きる必要もありません。
私が節子と同じ世界に生きようとしたことは、私には悔いのないことですが、それは相手が一人、ただ1回だけのことだからこそ、できたことなのです。

「理解とは、そのなかで人が世界を有する出来事である」
節子がいればこそ、あるいは節子がいないが故にこそ、私の世界は私の世界でした。
その世界は決して私とは無縁にあるわけではありません。
私の考えや行動によって、世界は変わっていくでしょう。
私が生きる世界と私の思い(理解)と、深くつながっています。

挽歌を書き続けながら、その世界も私の理解もいろいろと変化していることを感じています。
私自身は、この挽歌を読み直すことはないのですが、書いていて感ずるのは、節子のことも、過去の事柄も、微妙に意味合いが変わってきているのではないかという不安です。
注意しないと、私の節子像は実像とは別のものになってしまっていくかもしれません。
いや娘たちによれば、もうすでに変わってきていると言われます。

しかし、どれが実像なのか、まあそんなことは意味のないことかもしれません。
節子もまた、私と同じように、いまなお生きつづけているのですから。

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