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2011/02/25

■節子への挽歌1272:心からの笑みはもう訪れることがない

昨日、挽歌を読んでいる方からのメールを掲載させてもらいました。
アップした後も、読み直してみました。
私は自分で書いたものはあまり読み直しません。
ですからこのブログは誤植だらけで、よく叱られます。
今回は改めて何回か読み直しました。

一昨年、自殺のない社会づくりネットワークの立ちあげのフォーラムを開催しました。
参加してくださった会場のみなさんも含めての話し合いのスタイルでした。
たくさんの人がたくさんのことを話してくれました。
終わった後に参加者と一緒に交流のための懇親会をやりました。
そこで、顔見知りだった自死遺族の方から、叱られました。
自殺未遂の方の支援をしている人との会話の中で、支援する活動は楽しいですか、というような表現を私がしたのだそうです。

自殺のない社会づくりネットワークに関連したフォーラムを私は4回開催してきました。
これに関われたのは、節子を見送ったことと無縁ではありません。
もし節子との別れがなければ、私はこのネットワークを立ち上げる気にはならなかったでしょう。

「自殺」という重いテーマですが、話し合いでは私はいつも「楽しく」「笑いが起こるように」進行してきました。
テーマが重いからこそ、明るくさわやかな場にしたいからです。
暗い話は明るく語らなければいけません。
これは、私の信条の一つでもあります。
しかし、自死遺族の方にとっては、不謹慎だと思われたかもしれません。
その方は、それ以来、参加してはくれません。

「佐藤さんの顔に心からの笑みが、訪れることがないのは確か」と、昨日紹介した方は断言しています。
残念ながら、私もそう思います。
しかし、だからといって、私から笑みが消えたわけではありません。
むしろ、だからこそ、笑わなければいけないのです。
しかし伴侶の自死を体験した人にとっては、心からの笑みどころか、意志としての笑みも、忌まわしいだけのものかもしれません。

この頃、私は思います。
泣くことも笑うことも、結局は同じことなのだと。
楽しいから笑うだけではないのです。
悲しいから笑うこともあるのです。
そして、そのいずれであろうと、愛する伴侶の不在は、さびしいものです。
心からの笑みも、心からの涙も、私にはきっともうないでしょう。

もちろん望みもしませんが。

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