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2011/02/21

■節子への挽歌1268:良き聴き手

節子
今日は久しぶりに読書の1日でした。
先日から読み出していた「市民社会とは何か」という新書なのですが、途中から急に面白くなり、ついつい午後の予定までキャンセルして、読んでしまいました。
新書ですから、集中して読めばそんなにかからないのですが、私は「市民社会」という言葉にはかなりの思い入れがあるのです。
大学生だった頃、私は武蔵野市に住んでいましたが、当時の武蔵野市は、新しい市民論を掲げた松下圭一さんの、いわば実験場でもあったのです。
私は別に何かに参加していたわけではないのですが、身近なところでの動きのために、市民論や市民参加論、あるいは市民参加論に興味を持っていました。
本が面白くなったのは、そうした日本の1960年代からの市民社会論の動きが書かれていたからです。
ただ読むだけではなく、そこからいろんな思いが浮かんできてしまったのです。
そんなわけで、1冊の新書に1日もかかってしまったわけです。

当時、「日本には市民がいなかった」などという言説が広がっていましたが、私にはとても違和感がありました。
つまり、どちらかといえば、「市民論」に共感というよりも、どこかに違和感を持ちながらの興味だったのです。
その後、日本における「市民社会論」は大きく変化していきますが、いつもどこかでぴったり来ないままでした。
NPO法にも大きな違和感がありました。
この本を読んで、そのわけがわかりました。
思った通りだったのです。

こんな話は、挽歌ではなく時評編に書くべきですが、挽歌で書き出したのには理由があります。
私の「市民観」や「市民社会観」は、おそらく節子との出会いに影響されているのではないかと言う気がしてきたのです。

「市民」か「住民」か、という議論があります。
学生の頃は、私はいささかの違和感を持ちながらも、「住民から市民に進化しなければいけない」と考えていました。
おそらく節子に会った頃は、まだそういう考えだったと思います。
それが次第に「市民」という言葉に、胡散臭さを感じ出したのです。
それが節子のせいだとは言いませんが、節子とさまざまな話をし、暮らしを共にする中で、私の考えが変わってきたのです。
「市民」か「住民」か、などということには、節子は興味を持ちませんでしたが、私が話すといつも素直に「感心」してくれたのです。

人は話しながら考えるものです。
私は本を読むと必ず節子に話しました。
節子の反応は、私には大きな刺激でした。
私がいまあるのは、「良き聴き手」を持ったからなのです。
本の内容と直接関係があるわけではないのですが、今日、1日読書をしていての一番の気づきはそのことでした。
私が本を読まなくなった理由も、少しわかりました。

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