■人間という種の育ち方
人間の持つ知性や言葉は、最終的には人間自身を支配し、不幸な状態へと追い詰める方向に機能することになる、と考えたのは、ホルクハイマーです。
昨今の国内外の政治状況を見ていると、その言葉を思い出さざるを得ません。
その一方で、テレビはその状況からみんなの目を背けるためか、知性や言葉の意味を嘲笑するような番組を増やしています、
そうした番組には腹立たしさを感じながらも、もしかしたらそこにも大きな効用があるのではないかなどと思ったりする昨今です。
言語は、成果志向型行為だけではなく、了解志向型行為のためにもあると言ったのはハーパーマスです。
そうした、理解しあうための行為を「コミュニケーション的行為」と呼んだのです。
ここでの「コミュニケーション」を私は「共創」と呼んできました。
この発想は最近さまざまなところで広がっているように思います。
ホルクハイマーが人間の知性に不安を持ったのは、自然支配を志向するキリスト教文化を根底にした近代西欧世界のパラダイムの中の人だったからだろうと思います。
もし彼が日本に生まれたら、たぶん違った発想が生まれたでしょう。
日本と近代西欧では「言葉」の持つ意味がまったく違うような気がします。
このあたりは、言語学者やコミュニケーション学者、あるいは社会学者のテーマというよりも、もっと大きな視点で考えないと見えてこない流れのように思います。
つまり、人間がどう育てられているか、ということです。
よく科学技術は大きく進歩したが、人間の理性そのものは進歩せず、変わっていないといわれます。
私はそう思っていません。
人間は大きく変わっています。
人間は環境との関わりあいの中で共進化していると私は思っているからです。
そのことは自分のことを考えただけでよくわかります。
生活環境の変化の中で、私の理性も欲求も大きく変わっているからです。
人間は間違いなく進化しています。
もちろんネアンデルタール人と現代人が同じ部分も多いでしょうが、非連続的なほど変質した部分もあるはずです。
但し、変質や進化が「良い方向」に向かっているかどうかは別の話です。
そもそもそうした価値判断は、どこに視点を置くかで逆転するものです。
ある意味では、科学技術の変化(進化)も良い方向だと思うのは、一つの見方でしかありません。
前置きが長くなってしまって、何を書こうとしたか忘れそうです。
書きたかったのは、どうしてみんなこうも、自らの成果志向型に向かうかと言う嘆きです。
与謝野議員の行動にその典型を見ますが、自らの小さな目的を目指すあまり、せっかくの一度きりの人生を汚し、不幸を招く人が多すぎます。
それが個人の問題だけにとどまればいいのですが、人の生はつながっていますから、決してそうはならないのが現実です。
エジプトの騒乱も日本の国会の騒乱も、どこか似ているところがあって、人間の育ち方が間違っていたのではないかという気がしてなりません。
間違った種は滅びに向かうはずですが、どこかで軌道修正できるのでしょうか。
私の個別の生を大きく越えた話ですが、その問題は私自身の生にも深くつながっているように思っています。
まだまだ自分自身の生き方に問題がありそうです。
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