■節子への挽歌1270:死の報道の向こう側
悲しさは突然にやってきます。
毎日、さまざまな事件が起こります。
不条理な事件や事故で突然の死に見舞われる人もたくさんいます。
ニュージランドの地震で数十名の人が生命を落としました。
リビアでは今日もきっと不条理な死を迎えた人がいるでしょう。
そして日本でも、自らの生命を断つ人が毎日います。
私が味わったような体験をしている人がたくさんいるわけです。
そう思うと、やりきれない気持ちになります、
しかし、人は身勝手なもので、新聞で「死」という文字を見ても、自分が味わっているものと重ねて考えるわけではありません。
自らの心身とのつながりの距離に応じて、死は単なる言葉でしかありません。
そこで報道されている「死」と私が体験した節子の「死」が、同じものだとはとても思えません。
だから冷静にテレビの画面を見ていられるのかもしれません。
死は、だれもが当然に迎えるものという人もいます。
しかし、自らの生命よりも愛していた人には、「当然の死」などという言葉はまったくつながりません。
自らの死は、いつか来るものとして素直に受け入れられても、自らの愛する人が自分よりも先に逝くなどということは思いもつかないでしょう。
少なくとも、私の場合はそうでした。
節子は「永遠の存在」だと、どこかで思っているからです。
私にとっては、節子は死ぬはずもない人だったのです。
新聞やテレビで報道されている、たくさんの死は、私と同じ思いをたくさん生み出しているでしょう。
にもかかわらず、ニュースになって報道されると、死は無機質な事実になってしまいます。
しかし、その無機質な報道の向こうに、たくさんの私がいるのだと、時々考えることがあります。
みんなどうやって耐えているのだろう。
最近、そんなことをよく思います。
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