■節子への挽歌1253:節子の気配
節子
節子の写真を見ていると、どうしても節子がまだいるような気がしてきます。
なぜでしょうか。
先日、小畑さんから、奥さんの気配を感ずるのはどういう時ですか、と訊かれました。
答えられませんでした。
たしかに気配を感じた記憶があるのですが、具体的に思い出そうとすると思いだせないのです。
もしまた感じたら連絡しますと言ったのですが、この数日、意識していても、具体的な気配を感じないのです。
と言うのは、実は不正確で、ある意味では常に感じていることに気づいたのです。
気配というよりも、もっと現実感のある、一緒にいるという感じです。
写真を見ていると、その気配は強まります。
すぐそばに節子がいるような、そんな気さえするのです。
その気配の正体をつかもうと意識を集中させると、まさに節子が実体化するのではないかと思うほどに、すぐそばに節子がいるような、そんな気持ちになるのです。
ところが、実体化しそうなところまで来て、そこでとまってしまいます。
なにかとてもあたたかな雰囲気は感ずるのですが、そこから先にどうしてもいきません。
「ソラリスの海」の助けがあれば、たぶん実体化するのでしょう。
不思議な感覚で、これは節子を見送った後、いつになっても変わらない世界です。
小畑さんは、奥さんは鳥や花になって戻ってくると言っていたそうですが、鳥に奥さんを感ずることはありますか、とも訊きました。
なぜか即座に「ありません」という答が口から出てきました。
意識の上では、あれは節子かな、などと娘たちと話すことはありますし、昨年、庭にヒヨドリが巣を作った時にもそう考えたことはあります。
しかし、残念ながら、そうした鳥たちに無意識に節子を「感じた」ことはないのです。
意識の世界と無意識の世界は明らかに違います。
そしていま、私たちがたぶん共在しているのは、意識の世界ではなく、無意識の世界です。
意識の世界には、もちろん節子はいますが、それはあくまでも私の願望の世界でしかありませんから、私たちの世界ではないのです。
節子の写真を見ていて感ずるのは、間違いなく私たちの世界です。
その世界がまだ私には感ずるだけで実感できないのが、悔しくてなりません。
たぶん、節子には見えているのでしょうが、私はまだ小賢しい理性に阻まれて、見えてこないのです。
人類は、いつからこの小賢しさを身につけたのでしょうか。
彼岸と此岸を往来していた人たちがうらやましいです。
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