■節子への挽歌1273:「生きること」も先送りしたい
節子
先日、湯島のある集まりで、ニートのような者ですと自己紹介する20代の若者から、佐藤さんもニートのようなものですよね、と言われてしまいました。
とんでもないと、慌てて否定しましたが、否定するということは、要するにそうだということを表明しているといっていいでしょう。
根も葉もないことであれば、否定などしなくてもいいわけですから。
最近、どうも何でも先送りにする傾向が強まっています。
もともと私はそうした傾向があり、節子からはいつも「必要なことからやりなさいよ」と言われていたのですが、最近は必要であろうと不要であろうと、すべて先送りにしたくなるのです。
時々、「生きること」も先送りしたいなと思うことがあります。
実は、節子がいなくなってから、「生きること」がどうもすっきりしないのです。
表現が難しいですが、「生きている」という実感が不確かなのです。
生きるのが嫌だとか、辛いとか、そう言うことではまったくありません、
ふわふわと生きている、だから何かをしようという思いはあっても、切実感が生まれない。
その私の心身が、20代の自称ニートの若者に同調したのかもしれません。
自分の心身の時間感覚と時計の動きがずれている気もしています。
時間の流れになかなかついていけないのです。
先送りしてしまうのは、そのせいかもしれません。
私は若い頃から腕時計はせずに、時計の時間はあまり気にせずに生きてきました。
誤解されるといけませんが、時間にルーズだということではありません。
守らなければいけない時間は、かなり厳密に守ってきたつもりです。
まあ大切に思う時間が、あまりないと思うのが問題ではあるのですが。
節子は私と違って、必要なことから取り組む性格でした。
そして腕時計を持ち歩いていました。
新幹線に遅れると悪いからと早目に家を出るタイプでした。
新幹線に乗り遅れることは私には大切なことではなかったのですが。
そして、口癖は「できる時にしておこう」でした。
私は、「しなくてもよい時にはしないでおこう」でした。
その節子が、先に逝ってしまったのです。
「できる時にしておこう」と思ったのでしょうか。
そう思えないこともないのですが、これ以上はやめましょう。
「生きること」を先送りしたい、ということはどういうことか。
生きることを先送りした生は、魂の抜け殻のような存在かもしれません。
そういえば、最近、どうも魂が抜け出してしまっているのではないかと思うこともあるのです。
もしそうであれば、魂はいったいどこにいったのでしょうか。
いずれにしろ、どうも自分を十全に生きていない、そんな気がしてなりません。
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