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2011/02/05

■節子への挽歌1252:閉じられた愛と開かれた愛

今日は、とても理屈っぽい話です。
表題は内容とあまり関係はありません。

一昨日の時評編で、ネグリの言葉を引用しました
その時は気づかなかったのですが、後で、私の節子への愛もネグリのいう「息の詰まるような閉鎖空間に限定されている愛」だったのだろうかと考えてしまいました。

一昨日も引用しましたが、ネグリはこう書いているのです。

近代の愛の概念はほとんどといっていいほどブルジョアのカップルや、核家族という息の詰まるような閉鎖空間に限定されている。愛はあくまでも私的な事柄になってしまった。私たちは近代以前の伝統に共通して見られる公共的で政治的な愛の概念を回復しなければならない。
この言葉にはとても共感できます。
では、私の場合はどうであったか。
この挽歌を読むと「閉鎖空間での愛」に閉じ込められているのではないかと思われそうですが、私の空間概念はいつも開けたものです。
なぜならば私が空間の中心にいるからです。
しかし、それは決して独我論的空間を意味しません。
それは、すべての能動的な起点が自分自らにあるというだけの意味です。
そのベクトルは全方向的に、しかも無限に向かっているのです。
課題は、そのベクトルの先に向かって何ができるかです。
これが、私の生き方の基本です。

ですから、前にも書いたように、私には「愛される」というような受動的なことは「愛する」という能動的なことの一面でしかないと考えているのです。
今様にいえば、一人称で語ることしか、私には興味がないのです。
その一人称には、おのずと世界も含まれます。
私は、私とその環境だからです。

そして、私がそうであるように、すべての人がそうした空間をもっていることを前提にしての空間概念が、私の空間概念であり、世界観です。
挽歌にはふさわしくないややこしい話ですが、挽歌を書いていると、そうした発想がどんどん広がっていくのです。

私の節子への愛は、決して閉じられたものでありませんでした。
節子の向こうには開かれた世界があったからです。
もちろん節子も同じだったはずです。
まずは最も身近な節子を愛することで、世界中の人を愛することがはじまります。
私たちが好きだったのは、宮沢賢治です。
このことは以前一度書こうと思いながら、なかなかうまく書けずにいました。
今もあまり自信がありませんが、いつかきっと書けるでしょう。

言葉はとても難しく、当然のことながら、私の言葉もいろいろと誤解されているようです。
以前は頭で考えていたコミュニケーション論が最近は自らの問題として、とてもよく実感できるようになりました。
言葉はまさに、関係性の中で意味を育てていき、それに伴ってまた、言葉が生まれてくることを体感しています。
改めてハーバーマスを読みたくなってきています。

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