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2011/02/02

■節子への挽歌1249:「看取り」

節子
死の問題に取り組んでいる小畑さんが、「看取りの教科書」を出版したいのだが、そこに原稿を書いてくれないかと相談に来ました。
小畑さんは、私の事情をよく知っている方で、節子の看病時にも私に気遣いをしてくださっていた方です。
この挽歌も読んでくれていて、節子を見送った後の私の状況もよく知っています。
かなり迷ったようですが、遠慮しながら打診してきました。

お話を聞いた時、最初「看取り」という言葉がどこか遠い世界の言葉のように感じました。
しかし、言われてみれば、たしかに私は節子を看取ったのです。
小畑さんからこの言葉を聞かされるまで、その認識が私にはまったくありませんでした。
まだ節子が生きているような、そんな意識をずっと持ち続けていたわけです。
その認識は持てたのですが、何を書いていいか、まったく思いつかないのです。
その本の出版企画書ももらっていたのですが、なぜか頭に入りません。
それでそのことを正直にお伝えしました。
書きたくないとか、書けないとかいうのではなく、何を書いていいか思いつかなかったのです。
誰かに引き出してもらえれば対応できるかもしれないと小畑さんに伝えました。
そうしたら小畑さんはライターの方と一緒に、今日、取材に来てくれました。
会うまでは、正直、ちょっと気が重かったのです。

ところが、小畑さんとライターの方と3人でいつものように話していたら、自然といろんなことを思いだしてきました。
涙が出ることもなく、むしろ楽しく話せました。
そんな話で本の原稿になるか心配だったのですが、帰宅して改めて小畑さんからいただいていた出版企画書を読み直してみました。
驚いたことに、私が思っていたことと違うことがそこに書かれていたのです。
前には一体何を読んでいたのでしょうか。
もしかしたら、以前は「看取る」という言葉に呪縛されて、意識が固まってしまっていたのかもしれません。
同じ文章を読んでも、意識によってまったく違った受け取り方をするものです。
哲学の世界では「解釈学的転回」という言葉がありますが、まさにそれを実体験した気分です。
今日、話をすることによって、意識の呪縛が解け、まったく違うように解読できたわけです。

だからといって何を書いていいかがわかったわけではありませんが、こんな話をすればよかったなというような思いが出てきました。
もしかしたら、今日の話し合いで、私の体験を相対化する第一歩が踏み出せたのかもしれません。
思ってもいなかった質問も受けましたし、とてもわかってもらえないと思っていた「危うい話」も小畑さんは誠実に聴いてくれました。
たとえば、大日寺のロウソクの話や通夜の後の私と節子の会話の話です。
何を言っても、今日の2人は受け入れてくれました。
それが、呪縛が解けた一因かもしれません。
看取りにはスピリチュアルなことへの理解も大切と思っている小畑さんは、むしろそうした話に関心を寄せてくれました。

同じような状況にある人たちの話し合いの効用がよく語られます。
自助グループ活動です。
そうしたグループに参加しようという気はまったく起きないのですが、その効用が少し理解できたような気もします。
でもまだそうしたグループに行く気にはなれませんが。

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