■マトリックスな体験
今日、久しぶりに朝の通勤時間に、大手町などの都心を歩きました。
久しぶりだったせいか、たくさんの人が黙々と歩いているのを見て、とても新鮮でした。
みんな急ぎ足に目的地に向かって歩いているのです。
それがどうした、といわれそうですが、最近、ある本で読んだこんな文章を思い出しました。
「大衆(マルチチュード)は、何らかの形で一つに結合しないかぎり、それ自体では統治するのに適さない。というのは、何らかの統一体に含まれないならば、大衆は存在できないからである。それゆえ、大衆がある程度の理性によって一つにならないならば、国家=市民社会は解体するであろう」(「市民社会とは何か」平凡社新書)16世紀末に出版された「ヴェネツィアの為政者と共和国について」の本に出てくる文章だそうです。
同時に思い出したのは、つい数日前までのエジプトの広場の風景でした、
都心を秩序だって歩く人たちを支えているのは、それぞれの人に与えられた役割でしょう。
役割があるから、みんな黙々と歩いています。
私も今朝は、4月に予定しているフォーラムの会場の予約のために、飯田橋に向かっていたのですが、早く着こうと黙々と歩いていました。
役割がしっかりと与えられていれば、誰かから何か言われなくともみんな秩序を維持しながら行動します。
それが生命に組み込まれた本能なのでしょう。
しかし、実際に役割を与えているのは、何らかの統一体です。
それが国家なのか市民社会なのか、はたまたネットワークなのかは別にして、個々の役割と全体としての統一体は、再帰的な関係にあります。
エジプトにあふれ出した人たちは、どうだったのでしょうか。
大きな目的に向かって、役割を認識できている間は、秩序が維持できます。
それがなくなったり、達成されたりした後が問題です。
幸いにエジプトはうまくソフトランディングしたように見えます。
日本はどうでしょうか。
大手町を歩いている人たちは、幸か不幸か、みんなそれぞれの役割を与えられています。
だから機能的に行動できているのです。
しかし彼らから役割を奪ったらどうなるでしょうか。
秩序は維持できなくなるでしょう。
残念ながら、昨今の日本には、朝、大手町を歩けない多くの失業者がいます。
役割が見つけられないということは、居場所がないということです。
今回の事件の前のエジプトはどうだったでしょうか。
そうした役割のない人たちがたくさんいたのかもしれません。
それがツイッターで、ある時突然に役割を見つけたのです。
そしてデモの輪が広がっていったわけです。
そう考えると、エジプト的な事件が日本で起こっても不思議はありません。
都心の人工空間を黙々と歩いている大勢の人たちを見ながら、恐怖感を感じました。
自分もその一人なのに、とても恐ろしい気がしたのです。
まるで大きな機械の中に、自分も組み込まれているような感じでした。
こうした行動を日常化している人たちが創りだす、社会ってどんなものになっていくのでしょうか。
いささかの不気味さを、実感しました。
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