■節子への挽歌1266:人の世の住みやすさ
昨日から今日にかけて、またたくさんの人に会いました。
人にはそれぞれの世界があり、物語があります。
しかし、そうした「自分の物語」をしっかりと生きている人はどれほどいるでしょうか。
時々、そう思うことがあります。
夏目漱石の「草枕」の出だしの文章は有名なので、多くの人が知っているでしょう。
山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。今日、新聞を読んだといって、湯島の「支え合いサロン」にやってきた人がいます。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
人と話すのが好きなのだそうですが、子どももいないし、人と話す機会がないというのです。
近所の交流もないし、趣味や学びの会にも参加できるものがないといいます。
つまり、居場所がないと言うのです。
まだ50代の女性です。
不思議です。
人と話すのが好きならば、道で出会った人に話しかければいいだけです。
声をかけるだけなら、智や情や意地など関係ありません。
それに、その人にはまだ元気に働いている伴侶がいます。
伴侶と離婚し、子どもたちとも疎遠になった人が、その人にアドバイスしました。
自分から動きだせば、世界は変わる、と。
その人は、一度は自殺を試みた人です。
最近、湯島のサロンに毎回やってきます。
その人は「ここに来るととても気持ちの良い時間を過ごせる」と言うのです。
人の世は、決して住みづらくなどないのです。
草枕は、先の文章のあと、こんな文章が続きます。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。詩が生まれ、画が出来るのは、住みにくさのおかげだと言うのです。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
私は詩も書けず、絵も描けませんでした。
詩人にも画家にもなれない、多くの人は、要するに、さほど生きづらくはないはずなのです。
ほどほどの生きづらさは、世界を豊かにするとも言えます。
いろんな人に会っていると、そんな気がしてきます。
どこに越しても住みにくいということは、どこでも住みやすいということです。
いろんな人の話を聴いていると、自分の世界が相対化されてきます。
そして、自分の生き方も見えてくるような気がします。
だから、人に会うと元気が出てきます。
節子ほどではありませんが、だれでもが人に元気を与える存在なのです。
最近、つくづくそんな気がします。
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