■節子への挽歌1260:見たい意志をもてば見えてくるものもある
節子
世間では「無縁社会」などという言葉が流行っているようですが、私はたくさんの縁に支えられているのをいつも感じています。
先日も、スロバキア国立オペラの件で、いろんな人たちが応援してくれました。
いまも会ったこともない人たちが私を支えだしてくれています。
とても不思議な気分です。
1週間ほど前に、認知症予防に関するフォーラムを開催しようと思い立ちました。
そして何人かに声をかけて、集まりを開きました。
急だったので、集まったのは2人でした。
ところが、その報告をメールで流したら、次々に応援してくれる人が現れたのです。
私のまったく知らない人たちです。
人のつながりは、本当に不思議です。
こちらから呼びかけると、そして何か動き出すと、待っていたように応援してくれるのです。
この社会にはたくさんの縁が張りめぐらされているのです。
しかし、その一方で、無縁と思っている人も多いようです。
なぜそうした人は、自らの周りにある縁に気づかないのでしょうか。
縁を見る力が弱まっているのかもしれません。
人は見たいものしか見ないものです。
縁が見えないのは、縁が見たくないからかもしれません。
たくさんの縁が見えたら、その縁を無視できなくなりますから、それなりに大変なのです。
縁は支えられる縁だけではなく、支える縁もあるからです。
私たちは、それが煩わしくて、縁を見たくなくなったのかもしれません。
見たくなくなると、見えなくなるものです。
逆に見たいという強い意志があれば、見えないものまで見えてきます。
彼岸はどうでしょうか。
私にはまだ見えてきませんが、彼岸にいる節子は時々、見えるような気がします。
こんなことを書くと、気が触れたのかと思われそうですが、たとえば写真の向こうに節子の温もりや魂を感ずるということです。
同じ物を見ても、見ているものは見る人によって違います。
同じ物を見ても、見ている時や状況によって見えるものは違います。
人の思いが認識を生み出し、それが事実を生み出します。
節子を見たいという強い意志が、もしかしたら、私の周りにあるたくさんの縁を引き寄せているのかもしれません。
そして、そうした縁が、節子の代わりに、私を支えてくれているのかもしれません。
なぜか私のまわりは、いつもあったかです。
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