■節子への挽歌1264:大きな生命
気が滅入るときは、どうしても抽象的な世界に心が向かいます。
今日は、大きな生命の話です。
もし、私が、そして節子が、オートポイエティックな大きな生命現象の一部だとしたらどうでしょうか。
節子に出会ってからでも、節子を見送った後からでもなく、私は大きな生命体の一部であるという感覚を、持つでもなく持っています。
私が動くと世界は変わり、それがまた再帰的に自らに戻ってきます。
なぜこんなことができたのかと自分ながらに訝しく思うこともあります。
会社時代の企業文化変革活動も退社してからのコムケア活動も、なぜ実現したか不思議です。
そうしたことを何回か経験すると、自らが絶えず変化する生命現象、あるいは自然現象の一部であることを、感じないわけにはいきません。
私は基本的に怠惰な人間です。
節子とは大違いでした。
節子は良くも悪くも、身体を動かしていないと落ち着かない人でした。
怠惰な私は、しかし、時にしたいことが心に浮かびます。
好んでやりたいこともありますが、むしろそうでないことが多いのです。
なぜそんなことをしようと思ったのか、自分でも説明できないことが少なくありません。
怠惰ですから、ほんとうはやりたくないのです。
動き出す契機は、誰かにやることを話して、ともかく小さな一歩を踏み出すことです。
「やる」と口に出した以上は、動き出さないといけません。
私には「自分のためには嘘はつけない」という、行動原理が埋め込まれています。
ですから、やると言った以上は、心身が動かざるをえないのです。
そしてそれからが不思議なのですが、動き出すと自然とうまくいくのです。
途中で、私の気が萎えないかぎり。
問題は2つあります。
口に出す相手です。
そして時に震えそうな心を萎えさせない、あったかな支援。
その2つができるのは、節子でした。
その節子の不在は、私の行動を変えました。
動けない、動いても続かない。
しかし、ようやく最近、自らがオートポエティックな生命の一部である感覚を回復し出しました。
世界は、つながっています。
動き出すと、物語が始まります。
明日からまた動き出そうと思います。
大きな生命を確信しながら。
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