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2011/02/11

■八百長の定義の違い

八百長相撲事件がいつになっても決着が付きません。
八百長相撲の実体などは1週間もあれば全容解明されるはずですが、なかなかできません。
時間がかかるのは当然だと言うような人を座長にしているのですから、もともとやる気がないのでしょうが、それにしてもひどすぎます。
その一方で、被害はどんどん広がるのですから。

問題はかなり明確です。
放駒理事長は「過去には八百長相撲はなかった」と断言しました。
としたら、過去にやってきたことの延長でやっていたことは「八百長相撲」ではないのです。
つまり、相撲界の「八百長」の定義と社会のその定義とは同じくないのです。
そこに気づかないといけません。
力士はどの定義で考えればいいかがわかりません。
だから問題は解明されないのです。
考えてもみてください。
多くの力士はまだ10代や20代前半であり、社会的には「八百長」でも「八百長」ではない世界で育ってきたのですから、混乱して仕方がないでしょう。
それに携帯電話にはそれ以外のさまざまな情報が入っていますから、出したくはないでしょう。
野球賭博から八百長相撲へと飛び火したように、さらに何に飛び火するかもわかりません。
もはや協会も警察も信頼を失っていると言うことです。
警察も協会もばかなことをしたものです。
この影響はとても大きいはずです。

八百長とは何なのかをしっかり共有した上で、議論しなければいけません。
放駒理事長がいうように、「過去には八百長相撲はなかった」のであれば、今回の件も「八百長相撲」ではないのです。
お金のやりとりがあったのが悪いといいますが、気持ちのやりとりとお金のやりとりとはそんなにも違うのでしょうか。
もっと本質的なところから考えるべき問題です。

不謹慎ですが、むしろ「八百長相撲協会」をつくったらどうでしょうか。
昔のプロレスではよく八百長が話題になりましたが、それでもみんな楽しんでいました。
年の一場所くらい「八百長場所」ってのも面白そうです。
プロのスポーツは、今やお金で埋もれているのですから、それを放置しておいて、無垢な力士をいじめるのはあまりいい気持ちがしません。
今回は全員特赦の対象にしてやったらどうでしょうか。
春日錦も含めて、です。
むしろ役員や関係者には引責辞任してもらうとして。
裁かれる人が間違っているような気がします。

すみません、また不謹慎な暴論で。

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