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2011/02/24

■「心を揺さぶる記事を書きたい」ということへの違和感

ある新聞記者が、心を揺さぶる記事を書きたいので、という書き出しで、自殺未遂体験者の紹介を依頼してきました。
「心を揺さぶる記事を書きたい」という表現が気になりました。
どうも心にひっかかる表現です。
案の定、返信したにも関わらず何の返事もありません。
私が紹介した人への連絡はしたようですが、私には何の連絡もありません。
こういう人が書いた記事が、心を揺すぶるかどうか、とまで言うつもりはありませんが、心を揺さぶる記事を書きたいと思う姿勢に、私は悲しさを感じます。
まずは、自らが心を揺さぶられるような生き方にこそ心がけるべきです。
読者の心を揺さぶろうと思うあまり、おかしな「創作」が起こることを危惧します。
新聞もテレビも、受け狙いが感じられるものが増えているような気がします。

自殺のない社会づくりネットワークに関わっている関係で、その種の番組や記事を担当している人にも会いますが、その作品のほとんどは、私にはいつも違和感があります。
報道がいかに「虚飾」と「創作」に満ちているかを、昔何回か体験したことで、私は今も報道嫌いですが、しかし、その一方で、報道の威力と大切さは理解しています。
信頼できる報道関係者もいることも知っていますし、彼らが悩んでいることも知っています。
だからこそ、「心を揺さぶる記事を書きたい」という表現に過剰に反応してしまうのかもしれません。
この人もきっと純粋にそう思っているだけなのでしょう。
私のほうがひねくれているのかもしれません。

ところで、心を揺さぶられるとはどういうことでしょうか。
そして、心を揺さぶることの意味はなんなのでしょうか。
なにかを引き起こすことなのでしょうか。
感動的な映画を制作するのとは違う目的があるのでしょうか。

昔、ある大学関係者に、最近の若者は実際の生活の中で感動を体験してきていないという話を聞いたことがあります。
「心を揺さぶる記事を書きたい」という文字から、そんなことを思い出してしまいました。

みなさんは「心を揺さぶられる」ことに出会う生活をしていますか。
私は、よく出会えています。
新聞やテレビではなく、自分の身の回りにいくらでもあるような気がします。
そうしたことを大切にした生き方をしたいと思っています。

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