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2011/03/31

■節子への挽歌1306:フェイスブックとつぶやき

節子
最近、フェイスブックというのが広がっています。
ネット上でのつながりの輪なのですが、まさに「友だちの友だちは友だちだ」という世界です。
若い友人から誘われて、以前から一応登録はしていますが、最近、いろんな人から「友達リクエスト」というのが届きます。
中には名前も知らない人からも届きますが、調べていくと共通の友人がいるのです。
この人とは共通の友人が3人いますよ、などとシステムが教えてくれるのです。
それはそれで結構面白いのです。
そのおかげで、しばらく交流が途絶えていた人との交流が再開されたこともあります。
相手からも、まさかフェイスブックで会うとは思いませんでしたなどというメールが届きました。
この世界は、リアルでもバーチャルでもなく、私にはもう一つの世界のような気がします。
そう思うのは、その世界で発せられるメッセージは、相手を特定していないことも多く、最近流行の「つぶやき」のように、内言語の表出でもあるからです。

言語には、内言語と外言語と文字言語の3つがあります。
内言語とは、心の中で用いられる発声を伴わない言語のことで、一説では一日3万語も発せられているそうです。
したがって、その大半は自分でも意識していないはずです。
それに対して、外言語は他者に向けて発せられる、目的を持った言語です。
文字言語は、それらとはまたまったく違うものでしょう。
私たちは、そうした3つのまったく違う言語の世界に生きているわけです。
いうまでもありませんが、私たちの生を支えているのは、内言語です。
それがなければ、他の2つの言語は、たぶん意味を持ちえません。

節子がリアルに隣にいた時、私たちの会話は内言語と外言語が重なっていたはずです。
私たち夫婦に限らず、心を通わせあった関係にある人同士は、たぶん内言語と外言語を融解させています。
表出されない内言語が、伴侶という相手に伝わるという関係が生まれていたのです。
人の絆の強いコミュニティにおいては、同じことが行われていたはずです。
その絆が壊れてしまったいま、ツイッターという「つぶやき」が重宝されるわけですが、それはいかにもさびしい社会のように、私には思えます。

しかし、この挽歌もまた、「つぶやき」といってもいいでしょう。
まさに今の私は、相手のいないままにつぶやかなければいけない「さびしい存在」なのかもしれません。
こう考えていくと、節子の存在は現代的でなかったのかもしれません。
節子がいたおかげで、私はこの現代においても、つながりに支えられた生き方に身を任せられてきたのかもしれません。
前にも書きましたが、私の脳が、あるいは言語世界が、最近の言葉でいえば、ソーシャルブレイン的に、内言語も外言語も区別せずに会話できたのは、節子の存在のおかげだったのかもしれません。

フェイスブックは、しかしその役割を果たしてはくれないでしょう。
他者のつぶやきは、私にはやはり無機質なつぶやきでしかないからです。
そして、私自身は、見えない大きな生命の海につぶやく意味がうまく理解できないからです。
節子へのつぶやき、内言語的な無意識のつぶやきは、節子によってしっかりと受け止められていました。
そうした関係を失ったことが、おそらく「そうか、もう君はいないのか」という、城山三郎さんのつぶやきだったのでしょう。

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