■節子への挽歌1303:動けない日もあります
私が一番動けなくなったのは、たぶん節子と別れてから3か月から半年経った頃です。
信じたくない現実は、それくらいの時間がないと実感できないのです。
いまもなお完全に実感しているかといえば、残念ながらそうではありません。
おそらく未来永劫、節子との別れには納得できずにいくことでしょう。
それにそれが必ずしも間違いとも言えません。
被災地のみなさんの多くは、おそらくまだ実感はできていないのではないかという気がします。
確かに哀しいし涙は出ます。
寒さに震え上がってしまうかもしれない。
しかし、それは心身が反応しているだけでしかありません。
そして、それがおさまりだすと、魂の中の暗闇が見えてきます。
それは決してふさがりません。
見かけ上、元気になっていく心身と欠けてしまったことに気づく魂。
それは奇妙に交錯しながら、バランスを取りながら、自らを変えていきます。
自分ではなかなかコントロールできません。
こんなはずではないのにと思いながら、動けないのです。
涙も出ないのに、哀しさが襲ってくる。
元気になろうという心身を、そうした涙も出ない哀しさが引き戻す。
何もできない1日。
そうしたことが時折、起こります。
これは病気だろうか、とも思います。
しかし、おそらくそうではないでしょう。
これは健全な証拠なのです。
被災地のたくさんの方たちの、今年の秋が心配です。
節子
今日はそんなことを考えていました。
動けない時は、動けない。
4年前の夏の節子のことが心から離れません。
| 固定リンク
「妻への挽歌07」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌1400:世界で一番孤独な部屋には「孤独」はない(2011.07.03)
- ■節子への挽歌1399:そうだ 奈良にいこう(2011.07.02)
- ■節子への挽歌1398:消えてしまった老後(2011.07.01)
- ■節子への挽歌1397:暑い夏の夜は嫌いです(2011.06.30)
コメント