■節子への挽歌1304:ほうれん草を買うかどうか
節子
あなたならどうしたでしょうか。
なぜか近くの八百屋さんに茨城産のほうれん草が並んでいたそうです。
出荷制限と聞いていたのですが、不思議です。
娘は買ってきませんでした。
それをめぐって、娘と私の節子観が正反対であることがわかりました。
私が、節子なら買ってきただろうな、こういう時こそ、農家を支援しなければいけない、と言うと、
娘はすかさず、節子だったら買わないよ、何でそんな危険なものをあえて食べないといけないのかというよ。
さてどちらが正しいでしょうか。
難しい放射線量など、節子は理解できないでしょうから、要は危険かどうかが判断基準になるでしょうが、同時にせっかく丹精込めて育てられた野菜への愛着もあるでしょう。
節子は食材が無駄に扱われるのが、とても嫌いでした。
それにテレビで、すべてが危険なわけではないという報道を見ていたら、むしろ応援の意味も兼ねて買うのではないかと、私は思います。
それに、節子は賞味期限などあまり気にせずに、期限切れのものを捨てずに調理していましたし。
それ以上に、私がそう思うのは、私なら気にせずに買うからです。
なにしろ私たちは同じ価値観を持っていたはずですから。
ところが娘は、そういう無茶をやる私に、節子は否定的だったと言うのです。
そして、家族の安全を守るように、安心できない食材は買わなかったというのです。
そう言えば、中国産は避けていました。
わが家では、「節子だったら」というのが流行り言葉なのです。
ところが、その節子基準は、人によって違うようです。
困ったものです。
ところで、今回に関しては、いずれが正解でしょうか。
当の節子本人は答えられるでしょうか。
たぶん答えられないでしょう。
時に買い、時に避ける、節子もその時々に気分に大きく影響される人でしたから。
まさに私と同じでした。
要するに私たちが似ていたのは、いい加減だったということなのでしょうか。
いやはや困ったものです。
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