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2011/03/07

■悲しい習性

先日、共済研究会のシンポジウムがありました。
以前書いたように、この数年、日本では共済事業に対する法規制が進んでいるのです。
当初は、不特定多数を対象とした共済の名を冠した悪質な保険的な行為を規制しようということだったのですが、いつの間にか共済すべてが保険業法の視点から規制されるということになってしまい、地道に活動していた共済事業が継続できないような状況に追いやられてしまっています。
金融資本主義の流れの中で、本来は別の思いや目的で始まった共済事業と保険事業が同一視され、共済事業が営利保険事業に飲みこまれる方向に動いてきているのです。
日本には、無尽講とか結いなど、古来、支え合う文化と仕組みがありました。
そうした、共に助け合い支え合う文化、共済の文化が壊されようとしているわけです。
しかし多くの人はそうした動きは知らないでしょう。
それに共済事業といっても、共済保険を思い出すだけかもしれません。

そのシンポジウムの話し合いの司会をさせてもらったのですが、会場から自分たちの活動を法規制の適用除外にしてほしいと霞が関に陳情しているがなかなか認められない。
任意団体だと相手にされないので法人化もしてきている。
どうしたら適用除外を受けられるか、というような発言がありました。
質問した人は、とても誠実に最近の共済規制の動きに対して行動を起こしてきている人の一人だと私が前から思っていた人です。

適用除外とはこう言うことです。
新しい保険業法によって、共済事業は保険事業と同じ土俵に立たされ、保険会社になるか、あるいは解散するかが義務づけられたのです。
しかし、多くの自主共済事業者の働きかけによって、その義務の適用除外が認められることになりました。
しかし、その適用除外を認めてもらうのは簡単ではないのです。

その質問に対して、私は司会役の領域を超えて感情的に反応してしまいました。
なぜまじめな価値ある活動をしているのに、適用除外の「お願い」をしなければいけないのか。そんな活動は最初から負けている。もっと自信を持って、自らの主張をしていくべきではないか、と。
いささか感情的に短絡的に話したので、私の話は無意味な暴論にしかならなかったでしょう。
しかし、なぜみんな行政や制度のいいなりになるのか、それが私にはわからないのです。
おかしい問題があれば、広く世の中に訴えるべきであって、管轄の役所にお願いにいくなどというのは、被支配者の発想です。
それに自分だけ適用除外になろうなどと考えるのは、私には与しえない発想です。
どうして問題をもっとみんなの前にさらけ出さないのか、
国民主権とは一体何なのか。

共済に限らず、そう思うことがよくあるのです。
普段からそう思っている憤懣が、思わず出てしまったのです。
それにしても、日本の国民はよく飼いならされています。
それを「民度」が高いというのかもしれません。
私には、単に「悲しい習性」としか思えないのですが。

質問者が読んだら、気分を害するかもしれませんが、私は2年前に、その人の話にいたく感動したことがあるのです。
それもあって、あえて余計なことを書かせてもらいました。

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