■原発事故の責任の所在
福島原発事故のおかげというと、語弊があるでしょうが、原発とはどんなものかがかなり明らかになってきました。
印象的だったのは、今朝の朝日新聞に出ていた双葉町の町会議員の言葉です。
見出しは大きく「原発選択 後悔の念」とあります。
双葉町では、2002年の原発トラブル隠し事件後、一時、増設を凍結したが、その後凍結を解除し、再び増設受け入れていたのです。
体験して初めて気づくのが人間なのかもしれません。
厚生労働省の村木さんもそうでした。
福島県知事や被災地の自治体の首長や住民が、東電や政府を責めますが、私には少し違和感があります。
こういう時期に、こんなことを言うと、憤懣ものでしょうが、それが私の正直な気持ちでもあります。
責任とは何か。
「責任という虚構」の著者、小坂井敏晶さんはナチスのホローコストに関連して、こう書いています。
「狂信的指導者が政治機構の中枢で決定するだけでは人は死なないという単純な事実を忘れてはならない。銃殺や毒ガスによる処刑に現実に手を汚したのはナチス指導者ではなく、ほとんどは警察官や役人を含む普通の市民だ」
つまり、実際にユダヤ人を殺害する人間がいなければ、殺害は現実化しなかったのです。
しかし、その人間をつくりだすのが権力者の、あるいは社会秩序の管理者の仕事でもあるのです。
いまのような情報社会になると、それはとても難しくなっているでしょうが、それこそ情報管理の本質です。
情報こそが力の源泉だったのです。
その状況はかなり変わってきました。
最近では、たとえば政府が米軍基地を引き受けても、その設置を受け入れる場所がなければ、それは実現しにくいように、状況は大きく変わっています。
では原発をめぐる環境はどうでしょうか。
その気になれば、数十年前からかなりのことがわかったはずです。
しかし残念ながら私たちは水俣の時と同じように、「権威者」を信頼し、真剣には考えなかったように思います。
そして、かなりの数の自治体と住民の多くは原発を受け入れ、その恩恵を受けていました。
そこに責任はないのか、そう思います。
自治体だけではありません。
同じことが国家レベルでもいえるでしょう。
私たちのほとんどは原発を受け入れたのです。
私は昔から原発には否定的でしたが、原発反対のデモにも行きませんでした。
だから、いまの事態の責任の一端は背負わなければいけません。
あるメーリングリストに、福島の農業者から、これまで原発で発電された電力を使っていたのだから、当然その事故で汚染された野菜も食べるべきだと言われたという話が流れていました。
私はかなり納得しましたが、しかしそうであれば、地域として原発を受け入れたのだから、今回の事故の責任も地域が負うべきではないかとも思います。
原発の立地を引き受ける地域がなければ、日本に原発はできなかったかもしれません。
何かが起こった時、必ずそこには、実行した人がいます。
誰が加害者で、誰が被害者か、しっかりと考えなければいけません。
誤解のないように付けたしますが、私は福島の人たちを咎めているのではありません。
東京電力さえも咎めたくはありません。
今回の原発事故は、私たちすべてが選んだ選択の結果だったのです。
責任者探しではなく、みんなで受け止めて、とにかく先ずは問題を少しでもいい方向で解決することが必要です。
そうしないと、この日本に住むすべての人が、人類への加害者になってしまいます。
私として、何ができるかを考えなければいけません。
とてもとても難しい難題ですが。
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