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2011/03/18

■節子への挽歌1292:悲しみのエネルギー

節子
テレビも新聞も、毎日、生と死を考えさせられる報道ばかりです。
節電に努めていることもあって、テレビはあまり見ていませんが、テレビをつける度に、やりきれない話が飛び込んできます。
もう地震から1週間経ちますが、悲報が日に日に増えています。

こうした悲惨な状況の中でも、秩序が維持されていることに海外からは高い評価を受けていますが、さまざまな事件も起きはじめているようです。

福島原発は、まさに悪夢です。
予想している通りの進行をしています。
どう対処していいか、わかりません。
あまりに問題が大きすぎます。
30年前に節子と話していたことが現実のものになろうとは思いもしませんでした。

人は、常に楽観的なシナリオにしがみつくものです。
その結果、何が起こるか、それを思い知らされてからまだ3年半です。
しかし懲りずに、いまもまた楽観的なシナリオに従おうとしています。
私には、選択肢はそれしかないからです。

それにしても、今回の地震と津波は、1万を超える人の命を奪い、40万人近い人の暮らしを変えてしまいました。
私たちのような思いが、1万も生まれたということです。

昨日、祈りについて書きました。
祈りは集まれば、自然さえも変えると私は思っています。
祈りにエネルギーがあるのであれば、悲しみにもエネルギーがあるはずです。
そうでなければおかしい、そう思います。

悲しみと祈りのエネルギーが、流れを変えてくれるかもしれません。
私の悲しみも、そうした大きな悲しみに、合流させなければいけません。
節子への思いが、すべての死者への思いに重ねられるとは思えませんが、家族を探し歩いている被災者の姿を見ながら、そんな思いが浮かんできています。

祈りや悲しみは、みんな同じなのかもしれません。

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