■節子への挽歌1275:「片肺飛行」の気忙しさ
節子
最近また時間に追われ出しています。
困ったものですが、時間の使い方がどうもわからなくなってきてしまっているようです。
というか、時間を配分する基準が私の中から消えてしまったのかもしれません。
もともと私はものごとをできるだけ同じように見ようとして生きてきました。
人間であれば、肩書などではなく、人としての尊厳さだけを意識するようにしています。
だれもが私にとっては、同じ価値を持っています。
節子は、その点だけは私を評価してくれていました。
ただその反面、私には「威厳」とか「礼儀」が不足していると時々指摘されていました。
友人から、もっと人を選んで付き合ったらどうかと言われたことがありますが、私には難しいことです。
結果的には、そうなっているはずですが。
用件もそうです。
節子はよく、大切なことからしたらどう、と言いましたが、大切さの基準をちょっと変えれば順序はいかようにも変わります。
私にとっては、やりたいことが一番大切なことともいえるのです。
今もそうした生き方は変わっていないのですが、どうも節子がいたころとは違うような気がします。
やはり伴侶を失うということは、生活のリズムが維持できなくなるということなのでしょう。
3年半経過して、ようやくそうしたことに気づきだしたのは、この挽歌の読者のどなたかがコメントをくださった言葉を使えば、「片肺飛行」が安定してきたからかもしれません。
それにしても最近は時間に追われがちで、挽歌も書き遅れ気味です。
とりわけ夜の集まりが多くなってきたのが辛いです。
忙しさの中で、節子を忘れないようにはしていますが、もうしばらくこうした状況が続きそうです。
まあ、節子は許してくれるでしょうが。
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