■節子への挽歌1289:悲しいときは泣けばいい
節子
津波の報道と原発事故の報道が交互に行われています。
それはまったく異質なものですので、見ていて心身が疲弊します。
津波の報道はかなり心を揺さぶります。
見ているのが辛い画面が多すぎます。
津波で洗われた旧市街地に向けて、「おかあさん」と泣き叫ぶ少女の姿はさすがに見ていられませんでした、
一方、原発事故は心に突き刺さります。
いい加減な報道が多く、もう少しまじめに報道しろといいたくなります。
誰も肝心のことを質問しませんし、説明しません。
いずれにも共通しているのは、世の終わりです。
世の終わりとは言い過ぎに聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。
福島原発の実状はかなり深刻であり、テレビの報道とは全く違うように思います。
一歩間違えば爆発ですが、誰もそのことを正面から見据えて取り組もうとしていません。
まじめに取り組んでいるのは、おそらく原発現場の作業員だけです。
どう考えても不条理です。
しかし、不条理なのは津波で肉親や隣人を一瞬にして奪われた人も同じです。
きっと世の終わりを見たはずです。
友人から10人以上の従兄弟家族が絶望的だというメールが来ました。
どう返信したらいいでしょうか。
幸いに被害を免れたという連絡をもらった人に、良かったね、と素直に言えない自分がいます。
テレビを見ながら思います。
悲しいときは泣けばいい、それしかできないのですから。
泣けない人間には真実はない、と私は思っています。
テレビの画面で泣いてしまうと、後々まで世間から嘲笑されるおそれもありますが(ひどい社会です)、そんなことは気にする必要はないでしょう。
私もいろんな人に笑われました。
しかし、悲しいときには泣くのがいいです。
被災者にできることは、それしかないのですから。
私にできることも、被災者の人と一緒に、涙を流すことかもしれません。
枝野さんも、もしかしたら、泣きたいのかもしれません。
泣きたいのに泣けない生き方。
節子がいた時には、私もそう生きていたように思います。
節子の前でだけ涙を見せました。
しかし、今はどこでも泣けるようになりました。
いや、涙をこらえられなくなったと言うべきでしょうか。
泣きたい時に泣けるような社会になれば、きっと社会は住みやすくなるでしょう。
不謹慎ですが、そんなことを考えながら、テレビを時々見ています。
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