■節子への挽歌1320:すべての始まり
節子
この頃、なかなか挽歌が書けません。
以前はパソコンに向かい、「節子」と打ち込むと、自然に何かが頭に浮かび、書きだせたのですが、この頃は書けないのです。
書けないというよりも、節子と会ったころのことが思いだされてしまい、その思いの中に迷ってしまうことが多くなってきました。
節子に会った頃が、私は一番幸せだったのかもしれません。
節子はまだ私のものではなく、私もまだ節子のものでもありませんでした。
私にも、節子にも、たくさんの可能性があり、選択肢がありました。
それに、それぞれに恋人もいたのです。
しかも、節子も感じていたと思いますが、私たちはあまりにも違い過ぎました。
節子は「現実の人」でしたが、私は「物語の人」でした。
誠実に生きようとしている節子に対して、当時私は生きることは物語を創ることと考えていました。
節子には、私がとても不真面目な人に見えたでしょうし、私には節子が真面目すぎる退屈な人に見えました。
それがどうして結婚することになったのか。
当時の私は、結婚したら相手と一緒になって、自分が理想と考える夫婦、さらには家庭を創りあげようという思いが強くありました。
具体的な理想像があったわけではありませんが、何となくの物語のイメージはありました。
そのためには、固定観念の強い人はだめでした。
柔軟な発想のできる人でなければいけませんでした。
節子が柔軟だったかどうかは極めて疑問でした。
繰り返しますが、それがどうして結婚することになったのか。
今もってわかりません。
ただわかっているのは、最初に節子と歩いた奈良の日のことです。
具体的なシーンはまったく思い出せないのですが、それを思い出だそうとすると、ただただ全身があったかな気持ちで覆われる
どう考えても、あれは異常な日だったのです。
しかし、それがすべての始まりだったのです。
ちなみに、節子と奈良を歩いたことは間違いありません。
猿沢の池の横の坂で撮った節子の写真を見た記憶があるからです。
でもそれも含めて、あれは誰かが創作した物語だったのでしょうか。
もしかしたら、私たちの人生は、誰かが創った物語をただ演じているだけなのかもしれません。
そんなことを考えていると、挽歌が書けないのです。
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