■節子への挽歌1315:癒す生気
節子
近くの手賀沼沿いの道路の両側の桜が満開です。
きっと近くのあけぼの山公園の桜も見事なことでしょう。
節子がいたら、お弁当を持ってお花見でしょうが、残念ながらわが家は誰も行こうとは言いません。
今年もお花見のない春で終わるでしょう。
ところが今日、ユカと一緒にお墓参りに行ったのですが、そこに赤とピンクの見事な花を咲かせている樹がありました。
今までもあったのでしょうが、気づきませんでした。
どうも桜のようなのですが、普通の桜とはちょっと違います。
何という桜でしょうか、今度、住職に会ったらお訊きしようと思います。
新聞によれば、津波に襲われた被災地の人たちも桜を楽しみに待っているそうです。
花が人の心を癒す効果は大きいです。
私もお花見には行きませんが、桜の花には癒されます。
癒される。
自分でもよくわからないのですが、実は癒されることへの抵抗がどこかにあるのです。
癒されたいはずなのに、素直に癒されることを受け入れられない自分がいるのです。
節子がいなくなってから、私の心身がひねくれてしまったからかもしれませんが、自分にもどうにもできない素直でない自分がいるのです。
しかし、癒されるのではなく、自らを癒すことには抵抗はありません。
と、ここまで書いてきて、昔、「癒し」は自動詞だと書いたことを思い出しました。
それをホームページやブログで探しましたが、見つかりません。
困ったものです。
癒されるためには、自らを癒す生気がなければだめなのです。
自らの中に「癒す生気」が戻ってくるのを待たなければなりません。
最近またそのことを忘れていました。
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