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2011/04/30

■節子への挽歌1336:「空気のような存在」

節子
これほど多くの人が、日常生活のなかで死と接したことは、そうあることではないでしょう。
昨日、今日と、3つのサロンを開催しました。
テーマはそれぞれに違いますが、いずれでも「死と直面した人」が語られました。

昨日は東北の被災地の応援に取り組んでいる人たちが中心の集まりでした。
ちょうど2日前に東北に行っていた人が、話しているうちに声をつまらせました。
今日は、自殺のない社会づくりネットワークの交流会をやったのですが、そこでも自殺防止の相談活動に取り組んでいる人が、やはり報告をしながら声をつまらせてしまったのです。
みんな明らかに正常ではありません。
気持ちが高ぶったり沈んだりしているのです。
死の体験があまりに多いので、社会全体がおかしくなっているような気がします。

現地の人たちも、みんな冷静に語っているようで、実は根本のところで変調をきたしているのでしょう。
悲しすぎて悲しめない、あまりに日常過ぎて理解できない、多すぎて受け止められない。
それにたくさんの人たちが、わけもなく(理由はもちろんあるのですが)応援してくれる。
テレビの取材までくるし、世界からも見られている。
最近はさすがに「がんばれ」とは言わないが、そんな思いは伝わってくる。

もし私だったらどうでしょうか。
少なくとも、思い切り泣きたいですし、弱音を吐きたいです。
なにもせずに呆けていたいし、誰にも会いたくないかもしれません。
もしかしたら、それさえもできない人がいるかもしれないと思うと、心が痛みます。

連休が始まってたくさんのボランティアが東北に向かったようです。
たしかに瓦礫を片付けるなど、たくさんの人手が必要でしょう。
ボランティアの中には、心のケアの活動をする人もいるでしょう。
間違いなく、たくさんの人が東北に行って、被災者の生活の応援をすることは、被災地の人たちにとっても喜ばしいことでしょう。
悲しさにいたたまれずにいる時に、だれかから声をかけられるほど、心やすまることはないのです。
しかし、同時に、悲しさにいたたまれずにいる時ほど、一人でいたいこともあるのです。
矛盾しているようですが、私の場合はそうでした。

多くの人が失ったのは、「空気のような存在」だった家族や隣人です。
そこにいるのに、それを意識しないですむ人。
その不在に気づきだす頃が、とても心配です。
被災者の方はもちろんですが、社会全体も、です。

あまりに多数の死の体験が、社会をどう変質させていくのか、不安です。

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