■節子への挽歌1321:かけがえのない存在
節子
津波で妻を見失い、その後もまだ出会えていない高齢の男性が、絞り出すような声で、
「ふつうの女だったが、かけがえのない存在だった」
と話していました。
昨夜、テレビをつけたら突然出てきた映像です。
その人は、いまなお、奥さんを探し続けているのでしょうか。
最近は、被災地の映像は見ないようにしているのですが、突然だったのでついつい見てしまいました。
表現が不正確かもしれませんが、私にはそう聞こえました。
「ふつうの人」が、ある人には「かけがえのない人」になる。
考えてみると不思議です。
しかし、人が生きるということは、周りの人や自然と関係を深めていくことです。
ですから、人も自然も、時間と共に、「かけがえのない存在」になっていきます。
そして、人も自然も、実は絡み合っているのです。
それを象徴しているのが、伴侶かもしれません。
伴侶の向こうに、実はすべての生活や自然もあるのかもしれません。
節子を見送って、そのことがよくわかりました。
「かけがえがない」のは節子が特別の存在だったからではないのです。
節子と一緒に築き上げてきた世界にとって、節子が不可欠な要素だったからなのです。
その世界は、節子とともに瓦解してしまった。
そんな気がします。
テレビに出てきた人も同じなのだろうと思います。
「かけがえのない存在」は、失って初めてわかるのです。
それまでは、あまりに「ふつうの存在」だからです。
東日本大震災で被災された方は、そうしたさまざまな「かけがえのない存在」を一挙に失ってしまったのです。
昨日までの風景が、昨日までの人のつながりが、一挙に無くなってしまった。
私は、伴侶を失っただけで、これだけおろおろとしているのですから、伴侶だけでなく、その伴侶と一緒に築き上げてきた世界、育ってきた世界までをも一度に失った人の戸惑いはどんなに大きいことか。
夏が過ぎた頃が、とても心配です。
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