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2011/04/15

■原発の安全性

先日、大学の時の同級生と久しぶりに会いました。
途端に原発事故の話になったのですが、原発の安全性に関して意見が食い違い、久しぶりにホットな論争をしてしまいました。
定年まで大企業にいた人と途中で脱落してしまった人との考えの違いの大きさを改めて実感しました。

友人たちは、今回は安全対策が不十分だったが、今回の教訓を活かせば原発は安全にできるというのです。
つまり安全を管理の程度の問題だと考えるのです。
私は、安全は本体の属性の問題であり、管理の程度ではなく制御の可能性の有無の問題だと考えます。

安全を管理の程度と考える発想は、「安全である場合は安全である」という無意味な発想でしかありません。
そこで、いざ安全神話が壊れてしまうと、想定外などと、これまたさらに無意味な言い訳をしなければいけなくなります。

しかし、問題は簡単です。
原発の基本は、「人為的に安全でないものを作り出すこと」なのです。
原発の運転を停止しても、あるいは廃炉にしても、ひとたび作ってしまったものは、存在するだけで安全でない属性を持っているのです。
安全でないものをわざわざ作り出しておいて、安全性を語ることは全く意味がありません。

人間の技術が生み出す物は、多かれ少なかれみんなそうではないかと反論されてしまいましたが、そこで制御可能性が次の要件になります。
ここでいう制御可能性は程度の問題や確率の問題ではありません。
できるかどうかの二者選択の問題です。

しかし考えても見てください。
原発は、たとえ事故を起こさなくても、存在そのものが安全ではないのです。
だから東京には原発はできないのです。

多くの人が原発を安全だと思う根底には、原発がないと困ると思っているからです。
なぜそう思うのかといえば、原発は経済の基盤となる大量の電気を低コストで生み出すと思っているからです。
いまでも原発が低コストなものと思っている人もいるようですが、少なくとも東電の関係者はそうは思っていないでしょう。
コストの計算方法が間違っていただけの話なのです。

原発を持っていないと核武装できないから困るという人もいるでしょう。
そういう人は、原発が安全だなどとは思ってもいないでしょう。
でも必要だと思っているのです。

原発は安全ではなく、またなくても普通の生活者は困らないのです。
電気がたくさんないと経済成長は難しいかもしれませんが、生活の不便さは、さほどないはずです。

そういえば、こんなブログがありました。
フェイスブックには書きましたが、哀しい話です。
http://d.hatena.ne.jp/ayua/20110411/1302526954大企業の人も、まもなく気づくでしょう。

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コメント

ブログ”福島には原発が必要だった”を読み、そして、コメントの全てに目を通しました。
賛否、批判、凄い数ですね。 
印象に残ったのは、”原発見学日帰り旅行に、参加したPTAのお母さんたちが友達に言った一言”おいしいイカが食べれるよ”です。
我が家でも、大型電気店のチラシ先着500名様に”○○”を差し上げますに誘われ、出かけますので他人事ではありません。
今朝(16日)日本TV 8:00-9:00の番組”ウェークアップ ぷらす”(キャスター 辛坊、ゲスト 寺島実朗、増田寛也、橋本五郎(読売新聞特別編集員、現在政府の復興構想会議の委員)、星正治(広大教授)、日テレの解説者)が面白そうなので録画しました。
このブログを読んだ後、その録画をみたら、中国電力の島根原発での交付金漬け”松江歴史館の建設費の大半は電源三法の交付金で等”の実態がレポートされていました。
”おいしイカ”と”歴史博物館”は同じ次元。交付金(補助金)漬けの弊害を再認識しました。

投稿: 横手紀昭 | 2011/04/16 20:01

横手さん
コメントをすべて読むとは、さすが横手さんです。

しかし、お金は怖いです。
私も2回ほど原発を一般見学者として見学したことがありますが、
イカは食べられませんでしたが、ボールペンをもらいました。

投稿: 佐藤修 | 2011/04/16 21:22

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