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2011/04/08

■情報のシャワー

相変わらずテレビは原発と震災被災地の話で埋まっています。
新聞も同じです。
東京都知事選も統一地方選も、リビアも北朝鮮も、子ども手当ても特捜部の犯罪も、みんな見えなくなってしまっています。

私は最近、テレビをあまり見なくなりましたし、新聞はほとんど読まなくなりました。
同じような話が繰り返し、感動的に、あるいは告発的に、語られるのには辟易しています。
どうせ、感動的な報道をしたいという人がやっているのでしょう。

記者会見もそうですが、情報は流せば流すほど、意味を希薄化させます。
相手をごまかす最高の方法は情報の過剰提供ですが、まさにそれによって私たちの情報感度は擦り切れてきているようです。

原発や放射能の危険性や安全性に関して、いろんな人がいろんな話をしていますが、果たして見ている人がいるのでしょうか。
テレビのキャスター自身が「わからない」と言っていますが、わからないといいながら報道している姿勢が私には理解できません。
そんな報道なら、サルでもできるでしょう。
私にはなぜテレビが毎日、自分でもわからない技術的な話を繰り返し説明しているのか理解に苦しみます。
小学校の夏休みの宿題のように、きれいに図解するのは、最近の学校教育の成果でしょうか。
勉強はできても生活できない人が増えていることがよくわかります。

それにしても、毎日毎日、シャワーのように浴びせられる情報で、現実の世界は掻き消されそうです。
そしてある日、突然に現実の危険がやってくるのでしょうか。

いまやるべきは、原発からいかに抜けるかを考えることだと、私は思うのですが、まだ原発が発電コストが一番安いなどと思っている人がいるのが驚きです。

テレビの報道番組を元に戻して欲しいものです。
ただでさえ視野狭窄になってきている私たちの目が、ますます視力を落としているのが恐ろしいです。

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