■原発を選んだ時に終わった
歴史の変わり目というのは、こういうものかなと、最近思うようになりました。
私が、社会の地殻変動を感じていたのは、1980年代でした。
当時はよく「地殻変動」という言葉を使っていました。
大企業の解体とか、地方分権ではなく地域主権、あるいは住民参加ではなく行政参加という発想で、拙文を書いたり、活動したりしていました。
しかし、いずれも見事に空振りでした。
2000年代に入り、ほかの人がよく使うようになる頃には、私自身にはその感覚はなくなり、地殻崩壊というイメージが強まりました。
NPOが動き出しましたが、市民社会論者への不信感のほうが強くなってきました。
そしていま、明らかに、日本社会は崩壊しつつあります。
文字通りの地殻崩壊まで起こってしまいました。
しかし、どうも社会の受け止め方は私の感覚とは違います。
ややこしいのは、今、2つの全く異質な問題が同時発生していることです。
地震・津波災害と原発事故災害です。
前者は、大勢の死者を出しましたが、まだ救いはあります。
未来があるからです。
改めようもあります。
しかし、後者には救いがありません。未来までを破壊したからです。
これまで語られてきた環境破壊とはまったく違います。
その違いの、あまりの大きさには言葉がありませんが、私自身、こんなことは起こるまいとどこかで思っていたように思います。
原発を選んだ時に始まった、と前に書きました。
正確には、原発を選んだ時に終わった、と言うべきだったかもしれません。
終わったのは、日本だけかもしれません。
スリーマイル島もチェルノブイリも、世界を壊したわけではないからです。
しかし、私にはこれが終わりの始まりのような気がしてなりません。
世界は、ほころびだすと急速にほころんでいきます。
滅びの渦中にいては、それはわかりません。
最近、私の心身がうまく現実に反応しません。
どこかに違和感が生じるのです。
報道されていることに、現実感を持てません。
自分がなにやら「虚ろな世界」にいるような気がしてなりません。
にもかかわらず、私自身これまでと同じ生き方の延長にいます。
今日は仲間と一緒に、認知症予防関係のフォーラムを開催してきました。
みんなと打ち上げをしていて、何でこれまでと同じ生き方をしているのだろうと、自分ながらにおかしな気がしてきました。
これは終わった世界の残像ではないのか、という気さえするのです。
しかし、人は、もし仮にそうであっても、生き方を変えることなく、生きつづけるのかもしれません。
社会(組織)がなぜ滅びるのか、最近わかってきたような気がします。
暗い記事ですみません。
最近いささか疲れきっています。
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