■節子への挽歌1329:届かない声、届けない祈り
東北の被災地をまわってきた宗教学者の山折哲雄さんが、「被災者には声が届かないこともある」と話していました。
被災者とはまったくちがいますが、その言葉がとても心に響きました。
節子を見送った後、たくさんの方が声をかけてくれました。
とてもうれしい反面、とてもわずらわしい気もしました。
こういう言い方をすると身も蓋もありませんが、少なくともある時期はそうでした。
そして、さらに見も蓋もないのですが、かけてくれる言葉の向こうが見えてしまうのです。
これは、自分にとってもとてもいやなことです。
相手が誠実に声をかけてくれるのに、素直に受け取れない自分に出会うからです。
耳を閉ざしたくなる時もあるものです。
山折さんは、被災者に対しては、時に沈黙も大切だとお話されました。
確かにそう思います。
しかし、この沈黙もまた難しい。
沈黙ほど大きな声はないからです。
節子を見送った後の私の体験を、普遍化して、大震災の被災者の気持ちまで推察しようとは思いませんが、今朝、テレビで見た山折さんの言葉がとても印象的でした。
山折さんは、現地に立たなければ現地の人の気持ちはわからないという思いで、被災地を回られたようです。
その衝撃は大きかったようです。
現地に行きもせず、被災者の思いを憶測することはできませんが、思いを馳せて祈ることはできます。
声にせずに、祈ることも、意味があるのかもしれません。
もちろん被災者に届けようなどとは思いません。
祈りはいつも自らのためにあるからです。
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