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2011/04/29

■震災後失業者が7万人

労働局のまとめによると、岩手、宮城、福島の3県での震災後失業者が7万人もいるそうです。
大変だなと思う反面、どこかにおかしさを感じます。

被災地にはボランティアが集まっているように、「仕事」は山のようにあるはずです。
にもかかわらず、仕事のない「失業者」が増えている。
前にも何回か書いてきましたが、このことのおかしさに気づかねばいけません。

どこがおかしいかといえば、「仕事とは給料をもらうこと」と考えている点です。
そこに瓦礫があれば、それを片付けるのが仕事です。
住宅がなければ、住宅を作るのが仕事です。
問題は、そういう仕事をした場合に誰が給料を出すかです。
私はこの20年間、仕事の定義を給料をもらうこととは考えずに、問題を解決することと考えてきました。
「問題を解決する」という定義は、あまりにも価値観に左右され、客観性を持ちませんが、それが誰かの役に立つことであれば、誰かから報酬をもらえますし、自分だけに役立つものであれば、自分で費用を負担しなければいけません。
しかし、私にとってはいずれも同じ価値を持つ「仕事」です。
友人たちにさえ理解してもらえないので、なかなか伝わらないと思いますが、こういう生活を実際に20年やってきているので、そういう生き方でも暮らしていけるのです。

たとえば7万人の人に、被災地に山積みの仕事をしてもらい、給料を20万円支給するとしても、月額140億円しかかかりません。
そのお金を払う雇い主を探すのは大変で、時間もかかります。
しかしそのお金を1年間、国家が支払ったらどうでしょうか。
7万人の人は、誰からも雇われることなく、周りの問題解決に自由に取り組むわけです。
たかだか2000億円弱ですから、いかに財政が厳しかろうと出せるはずです。
7万人の人がそれによって生活基盤を保証されて、仕事に取り組んだら、おそらく1年で生み出す成果はその数倍になるでしょう。
それどころか、その2000億円は消費活動にも回りますから、乗数効果で数倍の市場を生み出します。

あまりに粗雑な議論なのですが、「仕事」とは一体何なのか、を考える、良い機会なのではないかと思います。
「雇用労働」だけが「仕事」ではありません。
そろそろ「仕事観」を考え直す時期にきているように思います。

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