■節子への挽歌1309:復興への不謹慎な思い
節子
被災地の復興の早さに驚いています。
同時に、「復興」という言葉に羨望も感じます。
これこそ不謹慎と非難されそうですが。
壊されたものには復興できるものとできないものがあります。
市街地がいまや泥沼のようになってしまい、近隣の地域に一時疎開していく住民たちが報道されていました。
その住民たちの地域の区長が、「自分たちの地域は自分たちで復興しなければ」と話していました。
しっかりと生活している人たちの覚悟と姿勢には、感動します。
その一方で、やはり復興という希望に対して、うらやましさを感じます。
こんなことを言ったら、私の人間性を疑われかねませんが。
被災者のなかには、伴侶や家族を失った人たちもたくさんいます。
すべての家族、さらには友人までも失った人もいるでしょう。
私よりも、もっと過酷な試練を与えられている人も、たくさんいるはずです。
なかには、なぜ自分だけが残されたのかと嘆いている人もいるでしょう。
その人に比べれば、私にはたくさんのものが残されています。
希望がない、という点でも、私などは恵まれていると言うべきです。
しかし、そうしたことはすべてわかってのことなのですが、
テレビに出てくる被災者が時にうらやましくなります。
彼らには進んでいく道がある。目指すべきものがある。
そんな気がするのです。
人は、一人で生き、一人で死ぬものだという人がいます。
私は、その言葉にはとても反発しますが、節子は一人で彼岸へと旅立ちました。
しかも、直る人もある病気が、その原因です。
人為では抗しがたい地震や津波のせいではないのです。
その不憫さから、なかなか抜け出られません。
その責めは、すべて私が負わなければいけません。
今回の地震や津波で命を失った人は3万人を越えるかもしれません。
気の遠くなる数です。
あまりに不謹慎で、文字にすることさえ躊躇すべきですが、なぜか私にはそれがうらやましいのです。
それに対して、一人で旅立った節子の不憫さ、その旅立ちを止められなかった自らの不甲斐なさ。
テレビを見ていると、突然、そんな思いが浮かんでくるのです。
壊されたものを復興できない者にとっては、被災者のみなさんを応援しつつも、時々どこかで、ふっと羨望の念に襲われるのです。
そんな思いは捨てて、自分のなかの希望を探し出すべきなのでしょうが。
希望もなく、生きつづけることは、実に辛いことです。
被災者のみなさんの希望が消えることのありませんように。
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