■節子への挽歌1335:生き残ったという罪悪感
節子
「いのちと死に寄り添う支援」のテーマを追いかけている友人がいます。
私も取材を受けました。
間もなく出版する予定だったようですが、この大震災で状況が一変してしまいました。
彼女からメールが来ました。
死を視野に入れるという当初の出版意図は、震災以降大きく変化したと感じています。よくわかります。
今ほど、誰もが死とは、そしてまた生きることとは、という命題と、真剣に向き合ったことはないと感じます。
そこをどうこの書に反映させるべきか考えるとなかなか筆が進みません。
そして、彼女はこうつづけて書いています。
私にできることは、彼女は福祉の専門家ですが、自らの問題と重ねながら、福祉の問題に実践的に向かい合った生き方をしている人です。
被災された方々が、自分があのなかで生き残ったという一種の罪悪感を超えて、
自分の果たすべき役割を見出していく過程をともにすることだと思っています。
節子の闘病中も、節子を見送ってからも、なにかと心遣いしてくださいました。
この本に関する取材にしても、私の心身の奥にある「一種の罪悪感」を気遣っての、取材だったかもしれません。
事実、彼女たちの取材を受けて、私の気持ちに少し安堵感がでてきたからです。
最初はお断りしたのですが、それが「自分の果たすべき役割を見出していく過程をともにすること」だという思いが、彼女にあったのかもしれません。
愛する人を見送った人は、多かれ少なかれ、「生き残ったという一種の罪悪感」を持っているような気がします。
どこにも向けようのない悲しみや怒りが、自らに向くのです。
その「罪悪感」を超えるのは、そう簡単なことではありません。
なぜなら、本当に超えたいなどと思っていないからです。
その「罪悪感」があればこそ、生きる力が出てくるとさえいえるかもしれません。
危険なのは、それがちょっと反転してしまう時です。
そこから悲劇が起こりかねません。
今回の被災者に関しても、そうした悲劇が少なからず報道されています。
ところで、この本の編者である彼女は、いまご自身も親のケアなどで大変な状況にあるのですが、昨今の状況の中で、「動けない自分にじりじりしてしまいます」と書いてきました。
なにか自分に出来ることがあれば声をかけてほしいとも書いてきてくれました。
もしかしたら、彼女を突き動かしているのも、「一種の罪悪感」かもしれません。
こんな言い方をすると噴飯物でしょうが、もしかしたら今回の大震災は人々の中に鬱積していた「見えない罪悪感」を目覚めさせたのかもしれません。
良い方向で、動き出すことを祈らずにはいられません。
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