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2011/04/03

■「国家的犯罪に加担したくない」というジャーナリスト

ジャーナリスト上杉隆さんがご自身のサイトで、一昨日、「無期限活動休止のお知らせ」を掲載しました。
http://uesugitakashi.com/
お知らせによれば、休止時期は今年の年末ですし、4月1日の掲載なのでエイプリルフールかもしれませんので、私にはあまり意味のある発言とは思えませんが、そこに書かれていることに興味を持ちました。

彼は活動休止の理由として、こう書いています。

これ以上、国際的にフェアな仕事のできない日本のメディアに関わることは、畢竟、自分自身も犯罪に加担していると疑われる可能性もあります。私はジャーナリストとして、国家的犯罪に加担したくないのです。
「国家的犯罪」。
この文章の前に、上杉さんはこう書いています。
今回の東京電力福島第一原発事故の例が示すように、自らの既得権益にのみ汲々とした日本の大手メディア(記者クラブ)は、結果として、政府と東電の「合成の誤謬」に加担し、憐れにも、先人たちの築いてきた日本という国の信頼を地に堕とす「共犯者」の役割を演じています。
かつて在籍したニューヨークタイムズ紙などの世界の論調を眺めていると、私はひとりの日本人ジャーナリストとして、いま強烈な無力感に襲われています。それは、あたかも日本政府は原子力エネルギーをコントロールできない無謀な「核犯罪国家」であり、また日本全体が先進国の地位から脱落して、今後数十年間にわたって「情報最貧国」に留まることが決定付けられているような書きぶりだからです。
小賢しい書き方だと思いますが、それはともかく、上杉さんが言う「国家的犯罪」とは、原発にまつわる情報の隠蔽という意味のように受け止められます。
上杉さんが、そうした犯罪加担的な記者クラブを改革していこうとしていたことはよく知られていることですが、彼の立場を考えると、かなり先での活動休止ではなく、現在時点での活動拡大こそが必要なのではないかと思います。

しかし、私が関心を持ったのは、「核犯罪国家」、そして政府と企業とメディアによる「国家的犯罪」という指摘です。
そこで使われている「国家」とは何なのか。
国民主権国家時代における国家とは、私たち自身のことでもあるのです。
つまり、私たち自らが犯罪に加担しているということです。
国家的犯罪と言ってしまうと問題は見えなくなってしまうのです。

そもそも国家とは、ある意味での犯罪集団、あるいは犯罪手段です。
国家が行うことは、それがいかに暴力的かつ不条理なことでも国内法的には犯罪にはなりません。
国際法的には犯罪になりますが、それは国際政治の材料になるということでしかありません。

国家的犯罪と言う必要はないのです。
マスコミの犯罪なのです。
その認識がなければ、いま起こっている全体像は見えてこないでしょう。
生情報が引き出されず、情報があまりに編集されすぎているところに、最大の問題があるように思います。
封じ込めるべきものは、放射能であって、生情報ではありません。
私たちも生情報への感度を高めなければいけません。

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