■「3.11以前と以後で世界が変わったと感じます」
マスコミ報道を見ていると、原発事故への不安は収まりつつあるような雰囲気がありますが、事態はおそらく悪化しているように思います。
私の周りでもむしろ不安は高まっているような気もします。
今日は被爆による死者までが公表されてしまいました。
昨日、知り合いから故郷に転居しようと思うというメールが来ました。
昨日会った若者は、なぜみんなこんなに安心しているのか理解できないと言っていました。
たしかに、最近のテレビの報道にも緊迫感がありません。
1号炉の状況が明らかになるにつれて、工程表も破綻しつつあると思いますが、それを心配する声も高まりません。
「慣れ」が広まっているのか、慣れさせられてきているのか、あるいは諦めたのか、わかりませんが。
一時期、自重していたテレビも、何もなかったように、元に戻ってしまいました。
こうした状況を見ていると、ソドムとゴモラを思い出します。
神が、もう一度怒らなければいいがと祈りたくなります。
生活のあり方を本気で見直す動きはあまり感じられません。
むしろ節電と称した販売促進活動が呆れるほど増えています。
以前も書きましたが、すべてが収益活動に取り込まれていきます。
しかも規範が軽視されるのも、私には心配です。
クールビズでネクタイなしの姿も多いですが、政治家くらいはネクタイをしてほしいです。
国民の首を絞める前に自分の首をしっかりと絞めて、襟を正すべきです。
原発と原子力は、所詮は同じものだという、ただその一点から私の原発観はつくられていますので、いささか極端かもしれません。
福島はわが国の3番目の被爆地であり、しかも、じわじわと被爆している状況にある。
私には、恐ろしい話です。
わかっている人がつい口を滑らすと、よってたかってマスコミがそれを非難し撤回させます。
ですから真実はますます見えなくなっていくわけです。
毎日のように、原発の危険性を話しあう集まりが開かれていますし、その報告や映像がメーリングリストやユーチューブで広く流れてきます。
しかし問題は極めてシンプルです。
神奈川の新茶の汚染が話題になることで、それは一目瞭然です。
私たちは放射能とうまく付き合わなければいけない社会をつくってしまったのです。
その認識からはじめないといけないように思います。
昨日も友人から、「3.11以前と以後で世界が変わったと感じます」という手紙をもらいました。
その変わってしまった新しい世界にうまく入り込めずに、最近、いささか精神不安です。
何かを時評する気が起きてきません。
厭世観に襲われています。
気分転換に「運命のボタン」という映画を見てしまいました。
ますます滅入ってしまいました。
たぶん軽い「うつ」症状です。
困ったものです。
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