■節子への挽歌1358:梵我一如
仏陀が生まれる以前のインドで活動していたヤージナヴァルキヤは、ウパニシャッド最大の哲人と言われています。
梵我一如を言い出した人とされています。
梵我一如とは、宇宙を支配する原理である梵(ブラフマン)と個人を支配する原理である我(アートマン)とが同一であることを意味します。
多くの「我」は、自分が独立した存在であると思っており、梵によって自らは律せられていると考えがちです。
そこで迷いや悩みが生じます。
しかし、梵我が同一であることを知れば、すべては同じように見えてきます。
それは同時に、真の自己(真我」)を知ることであり、梵(天)と合一することにより、永遠の平安が得られることでもあります。
そこには、他律も自律もなく、ただ平安があるのみです。
そうして輪廻から解脱できるのです。
その世界では、自己は他者であり、私は節子でもあるわけです。
まあ難解なインドのウパニシャッド哲学をこうも粗雑に表現してはいけませんが、ヤージナヴァルキヤはプラトンやソクラテスよりも早く現れた、史上最初の本格的哲学者だと東邦大学の渡辺恒夫教授は言います。
機会があれば、もう少し学んでみようと思っています。
梵我一如となって解脱するのは難しいですが、節子がいなくなってから、時折そういう感覚を持てることがあります。
仏教では後世に至って、アーラヤ識という梵我一如のわかりやすい説明構図が考案されますが、自己をゆるやかに捉えていくと、世界は次第に広くなり、他者と自己との境界が消えていきます。
しかし注意しないと自己の世界の拡大という広がり方もあるのです。
残念ながら多くの人は、その方向に進むような気がします。
そこが悩ましい問題です。
唐突に梵我一如を書いたのは、最近、誰かの話の中に自分を感ずることが多いからです。
挽歌にコメントしてくださった方もそうですが、それだけではありません。
偶然なのでしょうが、先週は毎日のように、そうした体験をしたのです。
節子がいたら、その体験を共有できるのですが、いないので内に貯めていたら、心身をあふれて、意識が梵に向かいだしたような気がふとしたのです。
もちろん解脱とは無縁の話です。
ただ解脱ということは実際にあるのだという、そんな気が最近してきました。
ちなみに、前に書いたかもしれませんが、私は解脱よりも転生を望んでいます。
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