■転向ブーム
福島の原発事故以来、「転向」が続発しています。
「転向」というと否定的なニュアンスがありますが、昨今の原発評価に関する転向の動きは私は好意的に受けとめています。
転向を感じたのは、まずは新聞記者からです。
毎日新聞の大阪社会部の日野記者が、4月21日の「記者の目」で、「これまで不都合な警告や批判を封じ込め、「安全」を自明のものとして押し付けてきた業界の独善的体質が今回の事故の背景にあると思える」と書きました。
フェイスブックで、もう少し早く書いてほしかったとコメントしたら、ある人から「漸く書けるようになったのだから応援すべきだ」とたしなめられました。
その通りです。
私も、日野記者に拍手を送りました。
これまで原発を推進してきた学者にも転向が広がっているように思います。
たとえば、最近、内閣官房参与を辞任した小佐古教授がその典型です。
涙の辞任会見で話題になりましたが、あの涙は転向への迷いの涙だと思います。
小佐古さんは、これもいま話題の浜岡原発のアドバイザーだった人だと聞いていますが、原発推進派だったはずです。
だからこそ参与に任命されたのでしょう。
髙木さんや小出さんとは違って、時流の中で生きている人でしょう。
しかし、その小佐古さんも転向しました。
私は、複雑な思いではありますが、拍手したいと思います。
テレビのキャスターやコメンテーターの発言も微妙に変わりだしました。
まだはっきりと「転向」したと思える人はいませんが、少なくとも原発に批判的だった人の「物言い」は変わってきました。
おそらく発言できる雰囲気が生まれてきているのでしょう。
それに「教化」されるように、たぶん何も考えていないタレントの発言も変わりだしているように思います。
マスコミ全体の空気が「転向」しつつあるともいえます。
こうした動きは歓迎したいですが、気になる点があります。
それは、こうした「転向」が、「信念の転向」ではなく、「功利的な転向」なのではないかということです。
あるいは、「孤独の転向」ではなく「流された転向」ではないのかということです。
要するに「勝ち馬」に乗っただけです。
もちろんそれが悪いわけではありません。
負け犬の遠吠えよりも、勝ち馬のいななきのほうが良いに決まっています。
それに、勝ち馬と負け犬が逆転したということでもあります。
それはわかっていますし、浜岡原発の運転停止のように、私が望む方向に動き出していることは歓迎すべきなのですが、なぜか素直に喜べないのです。
喜べない理由の一つは、テレビで見る街頭インタビューの市民の発言です。
制作者の編集があるでしょうが、今の電気依存の便利な生活を手放したくないと考えている人が多いのには驚きます。
たぶんマタ「計画停電」をちらつかされただけで流れは変わりかねません。
電力が不足しているというはっそうそのものが、私にはおかしい発想だと思うのですが。
国民が「転向」するには時間がかかりそうです。
なぜならみんな何も考えていないからです。
テレビで街頭取材に答えている人の話を聞いていると蹴飛ばしたくなりますが、多分私も取材されたら同じような発言をするかもしれません。
かく言う私も、おそらく何も考えていない仲間の一人なのでしょう。
自分ではわかっているような気もしていますが、何も動いていないのですから。
まさに大勢に順応する生き方しか、私たちはしていないのだと思うとぞっとします。
そんな世界に生きている自分がおぞましくて、どんどん厭世的になってしまっています。
どうやってこの底無し沼から脱出すればいいのでしょうか。
私も改めて「転向」すべきで時期かもしれません。
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