■節子への挽歌1359:命といのち
昨日に続けて、仏教の話を少し書きます。
仏教では、「いのち」は尽きることのない永遠の生命、「命」は限りある人間の生命、を意味すると、むかし誰かの本で読んだことがあります。
たとえば、「仏のいのち」、「佐藤修の命」というわけです。
昨日の話につなげれば、命はいのちの一時的な現象ということになるかもしれません。
あるいは、命はいのちを通じてつながっているという言い方もできるでしょう。
つながっている命は、人間だけではありません。
私は、生物を超えて、万物にまで広がっていると捉えたいですが、少なくとも自然とのつながりは感覚的に理解可能ではないかと思います。
命をつなぐものは、水と土です。
というよりも、水も土も命を持って生きています。
むかし土壌菌の先駆者である内水護さんから、土に関してお話をお聞きしたことがありますが、最初に教えてもらったのは、土が生きていることでした。
その頃読んだ本に(私の蔵書にありますが、いま手元にないので書名がわかりませんが)、生きている土から人間を創造したという聖書の話は科学的なのだと書いてあったことも覚えています。
土と水もまた、命といのちをつなぐものではないかと思います。
土は命を支え、水は命をつなぎます。
そうしてつながった命が、いのちへとつながっていく。
私は毎朝、節子に水を供えます。
水を供えるのは供養の出発点です。
仏前に供養される水を閼伽(あか)といいますが、この閼伽がアクア(水)の語源だという俗説もあります。
毎朝、私は閼伽水を通じて、彼岸の節子と命を交わしているつもりです。
自らの命が、大きないのちの一部であると思うと、生きるのがとても楽になるはずです。
梵我一如の心境で悩むことがなくなるからです。
しかし、頭ではわかっているのですが、なかなか梵我一如にはなりません。
そもそも「本来無一物」にさえなれず、今もなお、私は物財に囲まれて生きています。
実はそうした物財が、彼岸の節子との間を邪魔しているのだろうとは思ってはいます。
しかしそうした物財を通してしか、まだ私は節子とのつながりを確認できずにいるのです。
まだまだ梵我一如には程遠いのです。
節子は命の先が実感できた時に、いのちを実感しただろうか。
時折そう考えることがあります。
もしかしたら、あの年の8月のある日、節子の命は命へと変わったのではないか、と思うことがあります。
そういう考えが浮かんでくると、不思議なことにどこかでパタっと思考停止してしまいます。
なぜでしょうか。
まだまだ私には見ることのできない、密教の世界かもしれません。
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