■節子への挽歌1353:地獄
昨日の続きで、地獄のことを書きます。
地獄はいろんな意味合いがあります。
手元の世界宗教大事典(平凡社)には細かな字で4頁も記載があります。
しかし、最初に書かれている定義は簡単です。
「死後に赴くべき他界の一つ」とあります。
地獄と言うと、恐怖のイメージがありますが、彼岸のこととも言えます。
私にとっての彼岸のイメージは、とても明るくあったかいものです。
そこに節子がいると思っています。
私は、すべての人は同じ彼岸に行くと考えています。
ですから、私にとっての「地獄」は、彼岸とほぼ同じです。
人権と言うことがあります。
human rights の訳語です。
人権思想を支えているのは、「生きていることは正しい(right)」ということです。
誰かからその正しさを与えられたものではなく、生きていることが正しいのです。
ちなみに、このことは「生きていないことは正しくない」ということにはつながりません。
生きていないこともまた正しいのです。
それは矛盾しません。
それぞれの状況を、素直に受け容れるということでしかありません。
しかし、「生きていること」を勝手に否定することは正しくないはずです。
正しいことを否定するわけですから。
生きていれば、辛いことも悲しいこともあります。
煩悩から自由になることなど、できるはずがありません。
梅原猛は、愛と俗世の価値を並べて、いずれに縛られても地獄と語ります。
地獄という言葉は、彼岸とは別に、現世をさす場合もあります。
煩悩が地獄を生み出し、そこから抜けるには煩悩を超えることと仏教は説きますが、その時の地獄は此岸のことです。
つまり、地獄は彼岸でもあり此岸でもあるわけです。
そして、生き地獄であろうと先の見えない地獄であろうと、生きなければいけません。
それが正しいことだからです。
しかし、私はあまり「地獄」という言葉は使いたくありません。
そこは節子のいるところであり、私のいるところだからです。
たしかに愛する人がいない世界で生きることは辛いことです。
しかし、辛いのは自分だけではありません。
相手もまた彼岸で辛いのです。
辛い「地獄」が続くのは、しっかりと受け容れなければいけません。
生きていることが正しくなくなったら、きっと愛する人が彼岸の地獄に誘ってくれるはずです。
節子を見送って1353日経ちました。
ようやくこんな言い方ができるようになりました。
これは喜ぶべきことでしょうか、あるいは悲しむべきことでしょうか。
節子はどう思うでしょうか。
判断に迷います。
書き上げて挽歌にアップしようと思ったら、まなさんからコメントが届いていました。
アップを迷いましたが、アップします。
また新しい宿題をもらってしまった感じです。
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