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2011/05/11

■自己責任と他者責任は同義語

被災地にまつわる報道には、考えさせられる話がたくさんなります。
一番考えさせられるのは、人と社会との関係です。

たとえば、昨日から始まった避難区域にある自宅に一時帰宅した住民に対し、国側が「警戒区域が危険であることを十分認識し、自己の責任において立ち入ります」などとする同意書に署名を求めたという話には驚く一方で、奇妙に納得できてしまいました。
一時期、「自己責任」が盛んに言われた時がありましたが、他社に対する「自己責任」という言葉は「責任回避」と同義語です。
みんな「自己責任」をとりたくないのです。
そういう意味では、この言葉は「他者責任」と同義語かもしれません。
こうまでしないと後で問題が起きた時に、責められることもあるのでしょう。
こうして、責任回避のスパイラル進化が始まっていくのかもしれません。
責任回避とは、人とのつながりを切るということでもあります。
人のつながりを切った社会づくりが進められているというわけです。
そのことが、いろんなところで見え出しました。

そもそも生きるということは、自己責任を引き受けるということです。
わざわざ他人から自己責任などといわれたくないと、私は思います。
今回のユッケ事件にも当てはまります。
生きるための自己責任への覚悟が希薄になっています。
誰かの保証してもらわないと生きていけないとは、まさに家畜の世界といえるでしょう。
家畜の群れには、横のつながりは不要です。
必要なのは主人とのつながりだけです。

私は、家畜としてではなく、自己責任を持った人間としていきたいと思っています。
しかし、そうしたことを許さない風潮があることも事実です。
いまや住む場所さえ行政が決めるという時代です。
決める行政も大変ですから、「自己責任」ルールを使わざるを得ないのかもしれません。

うれしい話もあります。
今朝のテレビで、津波被災地の住人たちが、自分たちの地域に戻って、みんなで支えながら暮らしているのを報道していました。
自分たちで発電機を持ち寄り、時間を決めて利用したりしていたそうです。
そこに漸く昨日、電気が通じたという話でした。
震災前には、挨拶をする程度の人たちが、しっかりと支え合う生き方をしだしたのです。
しかし、浸水の可能性の高い地域なので、行政は高台への移住を勧めているようです。
場合によっては、そこに住むことを許されないかもしれない。
そのため壊れている自宅の修理もままならないようです。

自然災害はどこでも起こりえます。
それを踏まえた暮らし方こそが、私は歴史であり、地域の文化だと思います。
確かに今回の地震も津波も大きかったですが、だからといって、ただ危険から逃避するだけの発想でいいのか。
自然と共に生きる生き方をこそ、考えるべきではないか、そう思います。
決めるのは、あくまでもそこに住む人たちではないかと思います。
行政ができるのは、そこに住むことに関する危険性の情報提供です。

みんなで支え合いながら、新しいコミュニティを育てだしている。
そうした人たちは、「自己責任」などという言葉を意識はしていないでしょう。
ただただ自然にそうしているのではないかと思います。
それこそが生きることだからです。

そうした動きが、東北の各地で始まっているのでしょう。
市町村合併でおかしくなった、暮らしの場が、原点に戻って問い直されているような気がします。

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