■節子への挽歌1346:本当に必要なものは一つ
節子
こちらではいろんなことが起こっています。
たとえば今日はこんなことがありました。
福島の原発事故で周辺の住民は自宅退去させられていました。
それ以来、みんな自分の家に戻れないでいたのです。
そして、今日から一時帰宅が開始されたのです。
自宅にいられるのはたった2時間。
そして持ち帰られるのは一袋です。
私だったら何を持ち帰るか。
テレビでは、位牌や預金通帳、印鑑、権利書、アルバムなどを持ち帰る姿が報道されていましたが、まあふつう思いつくのはそんなところでしょう。
しかし考えてみるとこれは結構難しい問題です。
何を選ぶかに、これまでの自分の生き方、これからの自分の生き方が象徴されるような気もします。
私もいろいろと考えてみました。
しかし、なかなか選べません。
そして結局は選べないだろうと言うことに行き着きました。
言い方を換えれば、何でもよくて、目に付いたものを持ち出すことになるだろうということです。
節子がいないという前提での話ですが。
節子がいない現在、すべての物事の重要性は、私にはフラットになった気がします。
私にとって重要だったのは、考えていくと、節子だけだったのです。
真意が伝わるかどうか不安ですが、人にとって本当に必要なものは一つしかないのかもしれません。
その「一つ」が、人なのか、物なのか、場所なのか、思い出なのか、あるいは名誉なのか誇りなのか。
それは人によって違うでしょう。
なかには「お金」と言う人もいるかもしれません。
私の場合は、節子でした。
そのたった一つの「必要なもの」を失った時、人は価値の基準を失います。
自らが生きていくことの価値さえ見えなくなる。
だから、その「一つ」は、自分よりも大切なのです。
それがあればこそ、生きていけるのかもしれません。
それを無くした時、人はどうやって生きていけばいいのか。
少なくとも「生きる意味」は変わってしまいます。
自宅に久しぶりに戻った人の言動を見ながら、そんなことを思い馳せていました。
そして、みんな何かを「持ち帰る」ためにではなく、たくさんの思いを「置いてくる」ために、自宅に戻りたかったのではないか、とふと思いました。
みんなの生き方はたぶん大きく変わっていくでしょう。
その出発点として、自宅に立つことの意味は、とても大きいように思います。
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コメント
私も同じ気持ちです。
夫が亡くなって、一番大事なのは夫だったんだなって気がつきました。遅いですね。
私はまだ40代なので、あと何年、夫無しで生きていかなければならないかと思うと、ぞっとします。生き地獄です。
投稿: まな | 2011/05/11 09:39
まなさん
ありがとうございます。
遅いことはありません。
生涯気づかない人が多いでしょうから。
しかし、気づくことが幸せかどうかは迷いますが。
私は気づいたことが良かったと思っています。
そして、いまはどこかに妻がまだいるような感覚がしています。
そしてこれからも妻のために出来ることがあるのではないかと思っています。
生き地獄はいつかきっと変わってきます。
文字ではうまく書けませんが、意識が変わると情景は変わってきます。
ゆっくり進むのがいいです。
泣きながら、悔いながら、怒りながら。
投稿: 佐藤修 | 2011/05/11 09:59