■節子への挽歌1373:関係性としてのケアリング
節子
病室が満員になりました。
昨日までは2人だけだったのですが。
雰囲気ががらっと変わりました。
10日間の入院だというので、本を5冊持ってきました。
病院で読むのだからとケアリングや医療関係の本を持ってきました。
本は、どこで読むかで変わってきます。
今日、「ケアリングの現在」というちょっと古い本を読みました。
5年ほど前の書籍です。
病室には30分おきに、さまざまな人が来ます。
医師、ナース、薬剤師、掃除の人、栄養士、掃除の人も来ますし、検査の人も来ます。
普通に見れば、私は患者で、ケアされているわけです。
しかし、実際にはそうした医療関係者と私の間にもケアリングの関係が成立しています。
そうした実際の関係性のなかで、ケアやケアリングのことを今日は少し考えました。
もちろん節子とのケアリングに関してもです。
ケアもケアリングも、私は関係性の概念だと考えています。
ケアしようとすればするほど、ケアはできません。
それが私の、節子との経験です。
必ずしも成功したとは思いません。
節子はきっと不満だったでしょう。
いつもそう思います。
来世での別れは、お互いにもっとうまくやれるでしょう。
自分の体験を踏まえて、今日は改めてケアリングの意味に気づきました。
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