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2011/06/12

■「東北を復興させる」のか、「東北が復興する」のか

私がいつも気にしていることがあります。
何事かが語られている時に、それが自動詞か他動詞かということです。
そういう視点で、ずっと気になっているのが、東日本大震災の復興ビジョンを描く「復興構想会議」の位置づけです。
会議そのものを否定するつもりはありませんが、私にはほとんど無意味な会議だと思えてなりません。
その理由は2つあります。
いささか主観的過ぎるかもしれませんが、メンバーがほぼ全員「終わった人」あるいは「これまでの社会を推進してきた人」だというのが、第1の理由です。
政府が設置する諮問会議は、ほぼすべてがそうですから、今回に限って意味がないと思っているわけではありませんが、大きな「パラダイム転換」が求められている状況におけるメンバーとしては、あまりに保守的です。
復興は、パラダイム転換ではなく、過去に戻ること、という認識が政府にはあるのかもしれません。
この点は、ふたつ目の理由につながります。
そして私にとっては、そのことの故に、復興構想会議には何の期待も持てません。
それは、「復興」が自動詞か他動詞かに関わっています。
つまり、「東北を復興させる」のか、「東北が復興する」のか、です。
復興構想会議の視点、あるいは理念は、前者です。
政府のやることですから、それは当然です。
国家統治のための視点で、復興のビジョンと手段が構想されるわけです。
そうした視点からは、財源確保のための増税発想が出てきてもおかしくありません。

私は、今回の大震災で、時代の流れが変わり、社会の構造原理が見直されるだろうということを地震直後に書きました。
その後、復興が進むなかで、そうした予兆も感じました。
いま必要なのは、東北の人たちによる新しい社会の創造という視点です。
古い知識や体験に呪縛されている、いわゆる「有識者」は、そうした動きの中では、邪魔こそすれ、なんら創造的な構想など描けないでしょう。
新しい事態への対応にとって、「有識」であることは必ずしもいいわけではないのです。
少なくとも、素直に現実を見て、現実にある人たちと共に、構想していく姿勢が基本になければいけません。

おそらく東北の現場では、新しい知がどんどんと生まれてきているのではないかと思います。
これまでの社会が産んでしまった「被害の増幅」を謙虚に直視し、社会そのもののあり方、生活のあり方を問い直すという姿勢が求められているような気がします。
そして、そのことは、なにも直接的な被災者だけではなく、私たちにとっても必要な認識と課題ではないかと思います。

だれのための復興か、その認識を間違えないようにしたいと思っています。

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