■原発をめぐる駆け引きとその本質
原発を巡って電力会社の株主総会は賑やかだったようですが、基本的には原発推進の動きが強まるような気がします。
菅政権のうちに、原発路線を一歩でも進めておこうと言うように思います。
菅首相は自然エネルギーへの関心を語っていますが、おそらく陽動作戦としか思えません。
彼はもちろん、現民主党政権は原発推進派だろうと思いますが、なぜかそう思っていない人が多いのには驚きます。
九州電力の玄海原発の運転再開の動きは予想以上の早さです。
また巨額なお金が動いたとしか思えません。
これでさらに勢いがつくでしょう。
しかし、日本国民の多くは原発依存を変えていませんから、仕方がないことかもしれません。
マスコミの姿勢が変わらない限り、この事態は変わらないでしょう。
福島原発では、相変わらず、水漏れなどのお粗末なトラブルが続いています。
昨日、テレビの報道ステーションで「原発専門家」が、原発はキットとしては安全だというような話をしていました。
あまりにも馬鹿げた発言だったので、記憶が間違っているかもしれませんが。
こういう専門バカに私たちの生活は依存しているのかと思うといやになります。
「原発立地の安全性に関する科学者たちの議論を垣間見ると、往々に みして、安全性の問題が原子炉リスク管理という技術的な問題に収束される傾向がある」
こう書いているのは、国際基督教大学助手の中野佳裕さんです(「脱成長の道」)。
先日、湯島のオープンサロンで、ハイテクではなくローテクこそが大切だというような話が話題になりました。
どんな精度の高いシステム(キット)をつくっても、実際にそれは自然の中に設置され、人間が操作するのです。
実験室でおもちゃを作るのとは違うのですが、そのことがあまりにも軽視されています。
もっとも中野さんが言いたいのは、たぶんそのことではなく、生活の視点、人権の視点からの問題提起です。
彼はこう書いています。
原発のメカニズムの矛盾の科学的な検証は、もちろん重要である。しかし、より構造的かつ歴史的な観点から言えば、問題とされるのは、原発それ自体の技術的性能以上に、近代民主主義成立の根拠となる人権概念と照合した際の妥当性である。前に何回か書いていますが、私の反原発の契機は、原発が人権を無視していることを知ってからです。
人間を基本にしない発想は改めなければいけません。
私は東レに勤めていた時に、会社の経営理念を見直させてもらいました。
新たに作成した理念のなかに、「人間を基本とする経営」という要素を入れました。
全社での議論を踏まえて、役員会でも議論してもらい、最後は経営会議で決定しました。
しかしある役員から、これまでの経営は人間を基本としていなかったのかと揶揄されました。
そして、私が会社を辞めてすぐに、新しい社長は経営理念を変えてしまいました。
これはほんの小さな事例ですが、時代の流れを象徴しています。
1980年代と同じく、企業はまた、大きな岐路にあるように思います。
今日は、ビジネススクールで話をさせてもらいますが、サブシシテンスから考える経済や経営の話を少しだけしてこようと思います。
伝わるといいのですが、もしかしたら状況は1980年代よりも悪いかもしれません。
原発論議は、人間の生活を起点において考えなければいけません。
そうすれば、議論の余地のないほど答は明確なような気がします。
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