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2011/06/15

■「原発の暴利をむさぼってきた人達」

見えない放射線の恐怖が日増しに高まっています。
数日前に、挽歌編で、シャデラックスの「PPMのうた」の歌詞の一部を紹介しました。
再掲します。

PPMってなんのこと どこにかくれているのだろう
PPMってだれのこと どこからやってくるのだろう
(中略)
牛乳ビンにもかくれている
べんきょうしてても気になるの
ごはんのときも気になるの

夢のなかまで追いかける
にげてもにげても にげられない

このPPMを「放射能」と言い換えると、まさに今の状況です。

反原発の動きも、ようやくマスコミに取り上げられるほどに認知されてきました。
もっとも、イタリアの国民投票の結果に関しては「ヒステリー現象」という見方もあるようですから、日本の場合は、まだまだ脱原発には程遠いでしょう。
いま日本で国民投票をしても、脱原発にはならないように思います。
なぜでしょうか。
それはまだまだ多くの人が原発に依存している生活を捨てたくないからです。

反原発の人たちの発言をネットで見ていると、かなり過激です。
彼らの怒りは、「原発の暴利をむさぼってきた人達」に向けられています。
しかし、私には、そう言う人たちもまた、「原発の暴利をむさぼってきた人達」だと思えてなりません。
こんなことをいうと顰蹙をかうでしょうが、暴利はともかく、「原発の利益」であれば、この日本に住む人はほぼ例外なく、原発の利益に乗っかってきたのです。
もちろん私もその一人です。
その自覚のない、反原発論者にはどうも違和感があります。

それでは反対運動に勢いがつかないのですが、私自身がどうも大手を振って、反原発と言えない弱みを感じています。

12日に行われた、藤沢久美さんの司会の自然エネルギーに関する「総理・有識者オープン懇談会」をユーチューブで観ました。
ご覧になった方も多いでしょうが、なにか緊張感のない退屈な議論ばかりでした。
彼らには、3.11は何の変化も与えていないのだろうか、という感じさえ持ちました。
まあ言いすぎかもしれませんが、これが原発のおかげで豊かさを味わっている日本の現実なのでしょう。
福島県及びその周辺の人たちは別にして、多くの日本人は、まだまだ原発の安全性への不安が増しただけで、自らの生活を変えようなどとは思ってもいないでしょう。
放射線汚染は広がり、実際の危険度は高まっていると思いますが、多くの人たちの意識は、落ち着きだしています。
ですから、自分たちで放射線量を測定しようと言う母親たちや、子どもを疎開させようとしている福島の母親たちへの、世間の目は決してあたたかくはありません。
ほとんどの人の頭は、いまだに「原発漬け」になっているのです。

そこから抜け出たいと思います。
しかし、これまで恩恵を受けてきた原発への借りを、どう返したらよいのか、私にはわかりません。
また、原発からの利益をどう辞退できるのかもわかりません。
節電しろといわれますが、私はそんなことは昔からやっています。

脱原発と言いながらも、相変わらず原発の恩恵の中で暮らし続けることの気持ち悪さが、やりきれません。
私もまた、「原発の暴利をむさぼってきた一人」なのだという意識が数日前から、頭に入り込んで以来、どうも元気が出てきません。

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