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2011/06/27

■ふたつの豊かさ

山口県の二井知事が、中国電力の上関原発建設予定地の埋め立て免許の延長を現状では認めない方針を表明しました。
上関原発の建設予定地は、最近、話題になっている映画「祝の島」や「ミツバチの羽音と地球の回転」の舞台でもある祝島のすぐ目の前です。
自然に恵まれて、豊かな暮らしをつづけてきた祝島の人たちにとっては、とんでもない話だと思いますが、二井知事はこれまで国の方針に従って原発建設を推進してきました。
今回、埋め立てをストップさせたのは、福島原発事故以来の流れの中で、知事にとっては「やむを得ずの決定」だったのだろうと思います。
しかし、もし仮に福島の事故が起きなかったらどうだったでしょうか。

祝島には豊かな文化があるといわれています。
しかしそれは、私たちが目指してきた「お金で構築された豊かさ」ではありません。
自然や歴史、あるいは人のつながりの中で育まれてきた豊かさです。
上関町はどうだったのでしょうか。
おそらく自治体としての財政的な理由で、原発の誘致を認めたのでしょう。
それによって、福島がそうであったように、巨額の原発マネーが入ってくるばかりか、これまでとは違った「働きの場」も生まれ、経済は成長したかもしれません。
しかし、それによってもたらされる「豊かさ」と地域が長年培ってきた「豊かさ」とは。まったく別のものと言っていいでしょう。
そのどちらの「豊かさ」を選ぶかは、そこに住んでいる人が決める問題です。
それをとやかく言うべきではないと思いますが、今回の原発事故が明らかにしてくれたことは、「そこで住んでいる人たち」とはいったい誰なのかということです。
技術の巨大化は、影響を与える地域を想像以上に広げているのです。
広がりは空間的だけではなく、時間的にもいえるでしょう。
福島の住民たちが被害者であると共に、加害者であるという事実は、決して忘れてはいけません。
地域を預かるということは、そういうことなのだろうと思います。
もちろん安い電気の恩恵を受けてきた私も、福島県民と同じように、加害者でもあります。

被害者として考えるか、加害者として考えるか。
それによって行動は変わってきます。
そして、そのことは、ふたつの豊かさのいずれを目指すかにもつながります。

最近盛んに言われる節電発想に、私は大きな違和感をもっています。
一時期盛んに放映されたACのCMのメッセージも、どうしてもなじめません。
何をいまさらと思いますし、そういう流行で動いている人たちはどうせまた元に戻ると思っています。
大切なのは、自らの生き方です。

東北復興の先に何があるのか。
復興すべきは、東北ではなく。私の生き方だろうと思います。

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